自他境界を捨て去らなければならない時代に、戸惑う。
ソーシャルメディアの発展、カメラ付きモバイル端末の増加、センサーの進化、などにより、家屋の壁で守られていたリアルの境界が、崩されつつある。
個人の言動(はては、思考にいたるまで)他者の知るところとなる社会。
抵抗感をもつ人は少なくないだろう(私もその一人だ)。
だが、どうあがいても、この流れは止められない(ああ、いやだ)。
理由は、三つある。
(1) ムラ社会では全員顔見知り。
さきほど、日経ビジネスを読んでいたら、「安藤美姫選手に対するネット言論に見る『制裁なきムラ社会』顔の見えないコミュニティという暴力発生装置」という記事があり、この記事の著者は、こういった行き過ぎの抑止には、顔の見えるネット上のコミュニティのデザインが必要と述べていた(会員限定記事なので、ネタバレだめだろうから、引用はしません)。
昭和の時代を生きたり田舎暮らしをした経験のある人なら頷くところ大だと思うが、たしかに、ムラ社会は、全員顔見知りであることが、ある種の抑止力になっている。
ただし、オフラインのリアル・ムラ社会には、
・情報が少ない。(ちなみに、15年前筆者が開業した町には、書店が1軒だけ、町民図書館もなかった)
・選択の余地が少ないため、正しい情報を判断するスキルが磨かれていない。
・したがって、「情報そのものの正確さ」ではなく、「どれだけ親しい人が発信したか」「親しい人たちにとって、どういう判断をするのが得か」ということが、情報の真偽を判断するモノサシになりがち。
といった事情がある。
そのため、「噂話による冤罪の村八分」という危うい均衡がある。
このオフラインのムラ社会事情は、必ずしも、オンラインの社会にはあてはまるわけではない。
我々が、情報統制を受け付けず、豊富な情報の中から、「情報そのもの」を吟味して真偽を判断するスキルを身につけ、必ずしも個人の利得を最優先には考えない「高い倫理観」を持ち続けることができるなら、デメリットは回避できる。(それが難しいのだけれど)
※なぜ、ネットワークの発達していく社会で、過去に逆戻りするようなムラ社会になってしまうのかという理由について、私は、2006年刊の書籍のコラムで述べた(本ブログに一部掲載「モノや知識が「タダ」になる理由」)。
(2) ヒトの脳は変容をもとめられる
孤立性の高かった象牙の塔での研究でさえも(数学でさえ)、ネットワークの上に成立するものが出始めている。
一人のヒトの中のシナプス=一人のヒトの脳、一人のヒトの中のニューロン=ネットワーク、というように、一人のヒトがひとつのノードとして機能するようになる未来は、避けようがない。
我々は、そろそろ、個の意識を捨てる準備を始めなければならない。
カフカの「変身」ではないけれど、ヒトが別の生きものになったり、あるいは融合したりする古今東西の小説に見られるような、「これが自分だと思っているはずの『自分』ではない、なにものか」に呑み込まれる意識をもとめられるようになる、というのは、怖いことだ。
進化、といえば、聞こえはいいのだろうけど。
もちろん、人類中の一ノードになるのか、それとも拒否するのか、その自由はある。
だが、リアル社会でさえ、いまや一人になることのできない世の中である。ひっそりと暮らして人知れず去ることなどできないのである。
つながりから逃れられない社会に生きていることを考えれば、ノード拒否は、社会からの追放にとどまらず、法で裁かれる実刑をともなうものになる可能性すら考えられなくはない。怖すぎる。
(3) 脳内だだもれ社会になる
センサーの発達により、脳内情報を取り出す技術が確立しつつある。
現在進行形の思考や、海馬の情報さえ抽出できるようになったとき、拡張された自己は重なり合い、我々の境界は揺らぐ。
そのような社会では、顔や実名をさらすことなど大したことではなくなってしまう。
ならば、そういった情報の取扱い方に規定を設けるように、哲学者が踏ん張ってもよさそうなものだが、それなら20年前から踏ん張っていなければならなかったのであって、時すでに遅し。我々パンピーに、何か規定ができたというようなニュースが届いているわけではないので、何も決まっていないのだろう。
個人のプロパティを公にして共有しようという動きは、「近未来の社会が不可避ならば、むしろ自分たちで先取りしてしまえ、早く訪れるようにして渦中に飛び込んでしまえば、あきらめもつく」ということのように見えなくもない。
「『死ぬのが怖いから、その恐怖から逃れるために、むしろ死を選ぶ』のと、いったい、どう違うんだ?」と思う人がいても不思議ではないような話ではある。
ただ、この流れは避けられず、ストビューが登場したときのように、また、YouTubeで著作権問題が持ち上がったときのように、技術開発とシステム構築が先にあり、社会問題は、走りながら考えて妥当な着地点を見つけていく、ということになるのだろう。
個人的には、そのような「自他境界不透明社会」を歓迎しているわけではない。
既に顔も名前もネット上にさらしているので、個人情報が公になることについては、あきらめもつくし、干物でないだけに(化粧したことないし、ジャージはかないし、寝転がることもないし)見られても仕方ないかと、それ自体には、あきらめもつく......?......というより、あきらめなければならないのだろうな、と思うように努力することは......うーん。
だが、ひとたび、それらを認めれば、侵入は際限なく、静かな思考まで破壊されるようになるのだろうな。
情報を隔絶して弧の中へ深く沈潜するタイプの私にとって、それには激しい抵抗感がある。
いや~んな社会になりつつあるなあと思いつつ、でも、我々の子孫が宇宙へ出ていって、つながる時間と空間が拡がっていく時代には、それなりの痛みを伴うのは仕方ないのだ、割り切れ、と自分に言い聞かせてみたりする。
「『私を認識しているつもりの』私」の認識を変えていかにゃならんのよね、と、ため息をつくしかない。
あ~あ。