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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

ユーザーの気持ちを想定しての行動について、だらだらと(駄)

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いくらか前に「だらだら、くどくど」書いたテキストを、時期をはずして、アップしてみたりする。

くだんの大阪の問題、msnのニュースで見たけど、ユーザー層の問題、だと思う(市役所から見れば市民はユーザー)。ユーザーの大半がオサレだよね~と思っていれば別に問題ないわけで。
だけど、すくなくとも、(とりわけガガとか知らない層は)、ファッションとしてとらえたりしないだろうし。そういうユーザーが一定数を超えるのだろうし。

もっともその不快感の度合いを測る術はないし、一定数といっても明確な数値で表されるわけではないわけだけど。常識とか空気とか。
表情やしぐさから、ほぼ正確に、ユーザーの感情を検知するセンサーが開発されて数値化できたら、分かりやすいし、納得しやすくなるだろうけど。

自分のファッションを受け入れてくれるところで働く、が、たぶん社会の基本。
そうでなければ、自分で周りの受け取り方を変えたうえで、そのファッションをするしかないような。

昔、私が学生のころは、ほとんどの企業では、女性はパーマをかけばっちりメイクをしてストッキングとヒールを履き、お茶を汲み男性社員の補助をする、というのが常識だった。そうしなければ就職先は、ほぼ、なかった。
しかし私は、小学生のころに、母の化粧と肌の関係を観察していて化学物質の人体への影響と地球環境について考え、自分がきれいになっても水がきたなくなるのはツライなーと思い、長じてからもずっとスッピンという、ほぼ「1 / 同年代の日本女性」の変人だから(昔は、今みたいに環境に配慮した化粧品も容器のリサイクルもなかったし)、化粧もパーマもストッキングもヒールも知らぬ存ぜぬというファッションで働ける場所を選んできた。というか、職業柄、そういうファッションでも大丈夫だったわけだけど。

ただ、ファッションは変わる。

ピアスも、今はほとんど問題にならないけれど、20年以上前には、一般企業ではあまり見られなかった。

いずれ、タトゥーもオサレよねと言われる時代がくる。
ただし、そのタトゥーとは動的なもので、小型化されたインタフェースの焼き付けになるだろうけど。
腕に動的タトゥー入れたら、腕を振ればジャイロスコープが働いて、命令飛ばせるとかだよね。

何年か先の話だろうけど、動的なの入れてIT使いこなして業務効率化すればいいんじゃね?

こういったこと(対象ユーザーの感情の動き方やそれに基づく行動を想定して対応しておくことによって、起こりそうな問題を回避すること)は虚構新聞の問題でも同じような気がする。不特定多数の読者がどう読みどう広めるかを予測しなければならなかった、のかもしれない。
引用する際は、引用元を明記するようにと、各記事の冒頭に大きく載せておくなどの方法をとっていたら、誤解は防げたかもしれない(し、防げなかったかもしれない)。

私自身は、(愛媛人から見れば)水揚げされるのがタルトではなくナルトであろうと、(四国人から見れば)いくら冷凍ミカンや讃岐うどんが凶器に使われようと、(ゆるベジタリアンから見れば)大豆を放流して豆腐が帰ってくるのではなく豆腐が直接放流されようと、天日干しにしたバームクーヘンってスライスしたらバームクーヘンチップスって商品になりそう虚構ていうよりリアルすぎそれ、とか、疑問には思うが、ナルホドそういう表現方法があったか!と座布団5枚投げたいネタもある。

もっとも、もしある日、社主が、四国人の逆襲にあい、タルト2個で目隠しをされ、鳴門ワカメで手を縛られ、半田めんでP板に張り付けられたとしても、自分の身の上に起こることさえ笑いのネタにしなければならないことは言うまでもない。

これは、自戒を込めて書いている。
昔、私が、あるサイトに一般コラムを書いた時のことである。
何回分かをまとめて脱稿して掲載が開始された後で、サイトがさまざまなサービスに対応した。企画時の訴求対象とは異なり、ユーザー層が一気に不特定多数に変わった。
すると、読んでくださった中のうちの何人かから、誤解しているような感想をいただいた。そこで、すぐにサイトの主宰側に頼んで、目次下に明記してあった「筆者の体験に限定されるものであって当てはまらない場合もある」といった注意書きを、目次ページだけでなく、各記事のページにも掲載してもらった。

まだオンライン記事を書き始めたばかりのころだったから、読者がどのような読み方をするのかも、オンライン記事特有の文章構成も(できれば頭括式)、よく分かっちゃいなかったのだ。

多くの人が、時間に追われている。やむをえない。
全員が、記事を丁寧に最後まで読んで、咀嚼するわけではない。

シリーズものの場合も目次を見てから全体を通して読むわけでなく、1本の記事を単体で読む。執筆者のプロフィールを見たりWebサイトを見て背景を知った上で読んだりしない。
という読者も少なからずいる。

事実と意見と引用を区別して書く、正確なデータを掲載する、文法にかなった文章を書く、伝えたいことが伝わるように書く、興味を持ってもらえる工夫をする、心を動かす表現にする、という以前に、できるだけ、誤解されないような「見せ方」を工夫することが、前提条件として横たわっている。

それは結構たいへんなことだったりする。
私だって、今でも、仕事として請けてるわけじゃない文章は、こうやって、とりとめなくだらだら書いたりする。
数行読んで、立ち去っている人もいるだろうなーと思いつつ。

情報は増え続ける。
自分も発信しなければならず、他者の発信に目を通す時間は限られている。

私なんぞは、きちんと目を通す時間的余裕がないという理由から、Facebookの友人リクエストは来れば有難く受けるけれども自分からはなかなか送れずにいるし、Twitterも、Microsoftエヴァンジェリストさんたちが発信する関係分野の技術イベントや新製品の情報(と、Al Di Meola と Nik Kershaw のTweet)をフォローしているだけで、自分からは発信していない。
私は読むのはかなり速い方だと思うが、毎日、大量の情報を次から次へ走査できるだけのプロセッサは搭載していないし、それ以前に、あふれる情報の中を泳ぐ意志がない。

ニンゲンは、倦む動物だ。
どんなニンゲンも、飽きっぽい。
変化がなければ(感覚遮断実験とか)、精神は破たんする。

ファッションは、変わり続ける必要がある。それはヒトを飽きさせない平和な方法だ。ヒトの精神の平衡を維持し、社会の維持に大いに役立っている。
ブラックジョークも、ガス抜きにはなる。

ただ、それらが不特定多数の目に触れるとなると、しばし立ち止まり、自問自答しなければならないのだろう。
「今」「この場所で」言ってよいかどうか、言うとすれば適切な伝えかたとは何か。
時間と空間をフレームのように切り取って、考えなければならないことがある。

もっとも、考え過ぎると、臆病な人間は、一向に発信できなくなったりするので、それもまたなんだかなー、ではある。
私のハードディスクの下書きフォルダに溜まり続けているテキストファイルのように。
バランスが難しい。

この記事、オチなし。

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