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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

必要に迫られ俳句を作ったり。

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Windows Phone アプリのサンプルデータ用に、いくつかの俳句が必要になり、ひねり出しました。詩は書くものの、俳句は馴染みがなく(それでも松山人か)、決まりごともよく分かっていません。
先に英語で詠んでから、五七五に落とし込んで、日本語句を作ったら、なんだか舌足らずになってしまいました。

My sight in the ocean
The crystal of Tsugaru
deepens blue to blue

海の中
津軽びいどろ
青の青

以前にも書きましたが、私は海辺育ちで、毎日海を見ていました。現住所に移転してから海が見えないので、とても辛く、海の色のベネチアンガラスを5個と、津軽びいどろを1個持っています。
津軽びいどろは、一輪挿しです。直径7cmほどの大きさのほぼ球形で、上1/3が薄茶、下2/3がブルー、海の泡のような模様があるものです。びいどろは、crystalではないのですが、水晶玉のような形で、職人の結晶でもあるので、このような表現にしてみました。

私は、野の花や鉢植えは大好きですが、切り花や盆栽が苦手なので(花の気持ちになって辛くなってしまう)、花は挿さず、そのままデスク横に、インテリアとして置いておき、ときどき掌に乗せてみます。

そして、花を挿す孔の中に、5mmほどの小人になった自分が入って、周りを見渡したとしたら、と、想像します。きっと海の中にいるようです。
花瓶を外から見れば、中ほどから底までは、さほど違わない青一色です。が、中に入って足元を見れば、底の色は深いのです。これはきっと、同じ青一色ではなく、青から同じ青へのグラデーションに違いありません。同じ色であっても、視点が異なると、深みが感じられるのです。

The fallen leaves tells you sadness
You tells me your hapiness
What a relative world !

枯葉逝く
彩り愛でる
生死かな

枯葉は、枯葉の気持ちになってみれば、これは悲しいのです。もうお役御免であって、あとは土に帰るだけなのです。
ところが、ヒトは勝手なもので、それを見て、赤だ黄色だ紅葉がきれいと言って、喜ぶのです。
私も例外ではなく、勝手なヒトの中の一人です。街路樹の葉の舞う道を歩きながら、遠くの山を見ては、きれいと思い、舞う葉を見ては枯葉の気持ちになるのです。
見る者によって悲しみと喜びが変わる世界に生きているのだなあ、と複雑な気持ちになります。

There is nothing worse
It is living for worth
One step for myself

悲しみは
底をついたり
歩くだけ

私の座右の銘は「何をこれしき」で、悪いことが起こったときは、いつも「何をこれしき」。楽天的な性格なのですが、「何とかなる」とは思いません。「何とかする」と、自分を奮い立たせます。そういう時の気持ちは、The Crusaders の「I'M SO GLAD I'M STANDING HERE TODAY"(邦題:明日への道標)」だったりします(歌詞が好きです)。結果、がんばりすぎてしまいます。

「ガンバレ」という言葉は、そう声掛けしなければ頑張れないタイプの人には有効ですが、言われなくても頑張るタイプの人間には重いです。相手の性格によって、ケースバイケースで使うべき言葉です。
では、常に自発的に頑張る人には、何と言えばいいか。
「すこしずつでも、歩いていければいいね」
というのが、いいのではないかなあ?と思います。

英語俳句では、押韻は意識する必要はないようですが、詩を書く時のクセで、「or」の部分だけ中途半端に同じになってしまいました。

Memory is everywhere
O soul!
I'm just livin'
O earth!

思い出は
いずこにもあり
ああ地球よ!

英語俳句は3行が基本だそうなので、4行が俳句といえるのかどうか分かりません。

引用元をすぐに探し出して提示できないのですが(こういうところが紙の本の不便さ)ペンローズの著作に、分子レベルで同じヒトを構成したら、それは同じヒトたりうるかというのがありました。
同じ時間に同じ空間に構成されれば同じヒトかもしれません。
一意な私は、誰をも占有しない時空にいます。生きていると知覚する時、その足元にある地球のすばらしさを思います。
そのすばらしい地球上に、私の死後も、私を構成していた物質は、拡がっていきます。思い出も一緒に引き連れて拡がるでしょうか。

The stories of the unknown children
Who can never tell
Deep in the ocean, their jewels spell

あったかもしれない過去に
耳澄まし

自分の人生を振り返ってみると、デザイナーや技術者としての自分は、氷山の水面上の部分の、1/5です。あとの4/5は、プライベートで、家族との相互理解をはかるために悪戦苦闘してきた部分です。水面上のことが忙しすぎて、水面下の部分は、まだ、ほとんど手つかずです。

そのような状況で、もし、この世界から切り離されたとしたら?
私には子供がいませんし、兄弟もいません。私が言いたかったことを、伝える人がいません。周りから見れば、XML屋さんで沢山本書いてたよね、デザインもやってたよね、おもしろい人だったよね、それだけです。名残惜しいことこのうえありません。子供のころ二度死にかかったことがありますが、その時に思ったのは「まだすべきことがある」ということだけでした(情けないことに、家族や友人のこととかは考えませんでした)。

しかしながら、まだ、私には、水面下を表現できる可能性があります。

表現手段を獲得した大人とは違い、水面上と水面下の区別さえついておらず、心の中に、伝えたいことを、いっぱいしまい込んでいる子供たち。
しまい込んだまま、眠ってしまった彼らの思いは、彼らの宝物―――おもちゃ箱に大事にしまってあるような―――が、代弁しているのではないかという気がします。

我々は、その声に耳を傾けることを忘れてはならないのだと思います。今の私にできることは、ときどき、スーパーやコンビニの募金箱の前で足をとめることですが、それは生者のための行為です。死者に対して我々は無力です。忙しい日常のなかで足をとめたとき、ふと、彼らのことを思う、それしかできません。

日本語句のほうは何を言いたいのか意味不明ですが、英語句のほうは、受け手によっては辛い気持になるだろうから、詠んだけれども、使いませんでした。が、折に触れて誰かが語る必要があると思ったので、かなり迷ったけれども、このブログには書きました。

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