その昔、転んだ高齢者を助けたら、周りの視線が痛かった件。
中国の交通事故にあった女児を見過ごす通行人というニュース、他人ごとじゃないんですね。
15年以上前のことです。晴れてきもちのいい、夕方。まだ明るかったので、夏だったのかな。
勤務先からの帰宅途中、車2台がなんとかすれ違うことのできる幅の、歩道のない道路の左側をMTBで走っていました。
ちょうど左手が大手スーパーの駐車場という場所で、駐車場から出てくる車がないか注意しながら、徒歩程度の速度で徐行していました。
すると、私のMTBの10mほど先、道の左側をポツポツと歩いていたおばあさんが、突然前のめりに倒れました。
すぐにMTBをとめて駆け寄り、声をかけると、意識はしっかりしていました。
見たところ、頭や胸を打っている姿勢ではなかったので助け起こし、膝がすりむけていたので、501のポケットに入れていたポケットティッシュでしばらく押さえていたら、血はとまりました。
おばあさんは自分で立ちあがることができたので、どこへ行くのかと尋ねると、スーパーに行くところだと言います。この状態で買い物は難しいと思われましたが、店の中に入ると、すぐのところにサービスカウンターがあるので、具合が悪ければ近隣にいくつもある病院までタクシーの手配をしてもらえるでしょう。そこで、店の入り口まで送っていきました。駐車場の中を歩くのは危ないですから。おばあさんは、どうも、どうも、と言いながら、店内へ消えて行きました。(その当時は、ケータイは、まだ持っていませんでした)
と、これだけのことなら、日常生活の中の一コマにすぎないので、とうに私の記憶から消えているでしょう。
ところが、このときの状況にひどい違和感があったので、今でも憶えているのです。
おばあさんに駆け寄っていたとき、視線を感じて周りを見渡すと、近くを歩いていた人、駐車場にいた人、近くの住居の窓から顔を出していた人、7~8人ほどが、一斉に私の方を見つめていました。
それは「大丈夫かな?」とか「手伝わなくてもいいかな?」という視線ではなく、ひどく疑わしいものを見るような、冷たいものでした。私が感じたのは、「MTBでおばあさんに接触して倒したのかコイツは」、という誤解の視線でした。
そうして見つめている誰一人その場から動かず、視線を投げかけているだけ。
スーパーの入り口までおばあさんを送るのに、おばあさんの歩くペースに合わせていたから、少し時間がかかり、駐車場の入口にとめてあったMTBのところまで戻ってきた時には、見ている人は誰もおらず、ホッとしました。
荷物を持っていて両手がふさがっているとか、健康そうに見えても持病があって他者に力を貸すことはできないとか、妊婦さんとかなら、手伝おうかなどうしようかなと考えてしまい、見ているだけの状態になるのは当然です。
しかし、周りの視線を投げかけていた人たちは、荷物を持っていませんでした。そして、見ているだけの状態ではなく、非難の目でした。
また、こんなこともありました。
買い物に出かけた時、ある店の駐輪場の自転車が20台ほど将棋倒しになっていました。
そのままではMTBをとめる場所がなかったので、1台ずつ起こしていました。
すると、また、おばあさん転倒のときと同じ視線を感じたのです。店の客や通行人数名が、私の方をジッと見ているのです。これまた、何をしていいかどうか分からず固まっているのではなく、「手伝わなくてもいいかな?」という戸惑いの視線でもなく、ひどく疑わしいものを見るような、冷たいものでした。
風の強い日なら、そういう目では見られなかったでしょう。誰もが、自転車は風で倒れたと思うからです。が、風は強くなく、天気のよい日でした。倒れていた理由は分かりません。
自転車を起こしていて痛い視線を感じたのは、これ一回ではありません。その後何度かありました。軒並み倒れていると、起こさなければ、とめるスペースが確保できません。また、複数の店が1つの駐車場兼駐輪場を提供している場合、すぐには管理者を特定できないので、知らせることもできません。結局、買い物を諦めて引き返すか、自転車を起こすか、どちらかしかありません。
それにしても、なぜ、そういった誤解の目で見つめるのか?視線に対するリアクションに困ってしまいます。
そのようなわけで、今は、生命に全く関わらないと確信できる場合は、ケースバイケースで自分のとるべき行動を決めています。
が、前述のおばあさんのように、生命にかかわる可能性がゼロではなく、且つ、自分でも何か少しでもできることがある(通報含む)と思ったなら、助けます。
単に転んだ、では済まないからです。以下、日常的に高齢者と接している、私の想像です。
高齢者が転倒したとき、その前に身体の中で何か異変が起きている可能性が否定できません。つまり、単に道に何かが落ちていてつまづいたのではなく、高齢者側に原因があって転倒している可能性があります。
一過性の脳梗塞とか、心房細動とか、てんかんとか、間歇跛行とか、いろいろな原因が考えられると思います。
病気が原因で転んでいる場合、怪我だけでは済まないかもしれません。すぐに救急車を呼ばなければならない事態かもしれません。
なので、周りの目がどうであろうが、すぐさま駆けつけなければならないと思います。
ところが、脳に何らかの原因があって倒れた場合、事実を処理する部位に障害が生じていたり、記憶が断片的にしかないことが起こりえます。
もし、その高齢者が、平生から、「今の時代、他人が助けてくれるはずがない」、という考えを持っていたなら、断片的な記憶をつなぎ合わせ、「他人が助けてくれるはずがないのに、助けてくれたのだから、この人がつき飛ばして転倒させた罪滅ぼしに親切な人を装っているに違いない」と思いこんでしまうかもしれません。その思い込みは高齢者の中で事実となり、現場を見ていない家族もまた、高齢者の話を鵜呑みしてしまうかもしれません。
火のないところに煙は立たないといいますが、そんなことはありません。火が全くなくても、煙があるように思いこむ人はいます。
そのような思い込みは防げませんし、なかなか解けません。
しかし、そうであっても、家族や、第三者に、高齢者の病気や心理に対する理解があれば、助けた人が困る事態にはならないでしょう。とはいえ、理解がない場合も結構あったりしますが。
くだんの女児の件もそうですが、ある程度の通行量のあるところなら、最初に気付いた人が立ち止まって後から来る人たちに次々と声をかけ、数名集まったところで、一緒に助けるという方法をとれればよかったのかもしれません。それなら誤解される可能性は低いでしょうから。