Special オルタナトーク。「我、何故にブログを書きしか」書かずにはいられないことが、誰かの人生に影響するから。
なぜ、私はテキストを書くのか
なぜ、私はテキストを書くのか―――この答えは、実に簡単だ。「出力しなければ苦しいから。」
息を吸って吐かなければ死んでしまう。それと同じである。
日々、情報を吸い込んでいる。
Webサイト、本、新聞、ミニコミ誌、Facebook、mixi、メール。
環境からも、数多の情報を得る。
空の色、空気の重さ、立ち止まる風。この季節なら、しん、とした中に、フェードインする虫の音。
生活の中でも、日常労作のなかに、情報はぎゅう詰めだ。スーパーへ行く。南瓜ひとつとっても、日を追うごとに、皮の色が変わる。産地が北上していく。北海道まで登った後は、南半球からの輸入物になる。
そして、それ以上に吸いこんでいるのは、自分の思考である。
よほど疲れきって爆睡しているのでない限り、眠っている時も、バックグラウンドで考えている。
吐き出したものをまた吸い込み、自分の中で巡らせ、リサイクルするたびに、思考結果の嵩は増える。
言葉のモトになる、情報群
だからといって、常に言葉で考えているわけではない。
頭の中が絵画モードのときは、イメージが現れては消える。完成された絵のイメージは一瞬だが、それを描くなら1カ月はかかるので、なかなか形にならない。イメージが溢れると仕事や生活に支障をきたすから、普段は、強制的にスイッチをoffにしている。
頭の中が音楽モードのときは、曲がアレンジされた形で流れてくる。これも、なかなか形にならない。これも普段は、強制的にスイッチをoffにしている。
頭の中が概念モードのときは、訪れる概念をつかまえては、表現以前の情報の中で漂っている。
頭がテキストモードのときは、言葉がわく。絵や音や概念を、言葉で再構築していることもある。
表現とは、そうした情報を、適切に出力することだ。
中には、どの形式にも馴染まず、言葉で表現することも難しい情報がある。
それは哲学の限界だろう(もし表現可能な形式があるとすれば、それは数式なのかもしれない)
それでも、なんとかして言葉に還元できないか試みる。できるだけ言葉で出力したいと思う。共通且つ直截なフォーマットで表現することが、伝達の近道であるから。
オルタナティブ・ブログで書く理由
単に、書くだけではなく、公開して伝えたいと思うのは、なぜだろう。
まず、自分が、小説や詩に救われてきたように、誰かの精神を救うきっかけになる言葉を発信できるのでないかと思うからである。
次に、テキストを通じて、多くの人と知り合い、互いに影響を及ぼし合う経験をしてきているからである。
たとえば、こんなことがあった。
離職した男性が、書店で、拙著をひやかしていた。多少の失意のなかで、流行りの技術でも身に付けて、と考えていたのかもしれない。すると、近くにいた紳士が、「あなたもXMLに関心をお持ちですか」と声をかけてきた。話し込むうちに意気投合。その男性は会社を経営しており、採用されることになった......以前、そのような内容のメールをいただいたことがある。
自分の書いたテキストが見知らぬ誰かの人生に影響する。
嬉しいというよりも、身の引き締まる思いがした。
さらに、自分にしか書けないものもあると思うからだ。
それには二つある。
1つ目は、「今すぐ必要ではないけれども、未来のどこかの時点で必要になること」である。
セロトニンが多すぎるのか頭痛と引き換えに超長期報酬系なので、それを生かして書けることもあろうかと思う。
2つ目は、「マイナスをゼロに近付けるためのテキスト」である。
誰の人生にも苦痛を伴うことがある。
ヒトにとって自然なのは、苦痛を直視して論理的に対処し、対処しきれない部分は静かに受容するという生き方ではないかと、私は思う。
ところが、時間がかかり、他者からは内面の動きの見えない「受容」という作業は、経済性と効率の面から疎んじられがちだ。
深く人生に取り組むことよりも、人生の表面をなぞって浅く駆け抜けることが、推奨され始めている。
この社会には、苦痛から目を背け、苦痛を隠し合い、空元気を出してふるまうことの重さに、押しつぶされそうになっている人たちがいる。
ならば私は、ポジティブ一辺倒の「ゼロをプラスに変えるためのテキスト」も書くけれど、「マイナスをゼロに近付けるためのテキスト」も書いていきたい。それは、智を愛する高齢ブロガーの務めだと思うのだ。
「マイナスをゼロに近付けるためのテキスト」のテーマは、デザインや技術に限定されない。
広く社会との接点のある記事を書くなら、間口も広い方がいい。公開場所をオルタナティブ・ブログにもとめたのは、技術者以外の人たちの訪問も期待できるからである。
今語るべき情報を、時をたがわず
テキストを書き始めて、30年近くになる。
私は、もともとは図を描く人で、文を書く人ではない。イラストの延長線上でグラフィック・デザインを始め、広告原稿を書くようになった。サラリーマン時代は、新聞や専門誌に掲載する広告のコピー、記事込み広告の取材稿を書いていた。さらには、製品カタログの解説、マニュアル、ユーザー事例、セミナーのテキストから、展示会でコンパニオンさんの読むシナリオまで書いていた。
広告原稿では、制作費を上回る成果を上げなければならないことは当然だが、それ以上に、クライアントが目標とする問い合わせ件数を確保しなければならない。原稿のクオリティだけでなく、数字で示される結果がもとめられた。
開業後、IT分野の署名原稿を書き始めた。
書籍や雑誌を多数書き、スポンサーの広告で彩られているWebサイトにオンライン記事を書くようになった。
私の中で「問い合わせ件数」は「ヒット数」に置き換わった。
編集部との間で、「まだ市場が熟していないのでヒット数は見込めないが、先行して掲載する必要がある」ということにコンセンサスが得られている場合を除いて。
オルタナティブ・ブログは、それらとは異なる。
結果的に多くの人に読まれると有り難いけれども、かといって、それを目標する必要はない。このブログでは、ヒット数は意識せず、「今語るべき情報を、できるだけ時をたがわず発信すること」を心掛けていきたい。そうでなければ、広告コピーを書くようにキャッチーなタイトルを考えることに時間を使ってしまいそうになるからだ。
三度リライト、呻吟しながら、淡々と
もっとも、この「時をたがわず発信する」というのは、なかなか難しい。
PCの仕事をしているとはいっても、私は、PCを使わずにできることは、できるだけ使わずに済ませたい方だ。考える作業にPCは必要ないので、頭の中にテキストが浮かんでいるとき、PCの電源はOFFであるし、そもそもデスクの前にいない。
前述のように、私は、着想を堰き止めることに苦労しているわけで、それを記録するのは大変である。
ノートがあれば浮かぶものを慌ててメモするが、走り書きになる。これを後から見ると、ミミズの大群であって、自分でも読めないことが多い(悪筆ではない。ゆっくり書けば「人間毛筆わーぷろ」というあだ名が付いていたぐらいだ)。そこで、キー入力の方が速いとばかりにPC前に移動すると、その「PC前に移動して、起動して、キーを打つ」という行動により、頭の中の状態が変わってしまい、言葉が薄れていく。浮かんだテキストの多くは、取りこぼされてしまう。
結果、記憶にとどまるのは、エッセンスだけ。
記事の形にするには、このエッセンスに肉付けし、リライトし、校正しなければならない。それらの作業に、これまたたいへんな時間がかかる。遅筆ではないが、サービスマニュアルのような1箇所もミスしてはならない仕事をしていたおかげで、三度はチェックしてしまう。そうして読み返す度、もっと良い表現をとばかりにリライトしてしまう。つまり3回リライトすることとなり、なかなか公開にいたらない。
頭の中のテキストをそのまま定着させることができるなら、一日に数本のコラムなど簡単に書けるだろう。
というわけで、脳内テキストを抽出するBMI機器の登場を願うばかりだ。
そのような機器が登場するまでは、呻吟しながら、淡々と、書き続けるしかあるまい。