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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

私が働く理由 ~Special オルタナトーク「人はなぜ、働くのか」~

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 人間にとって、いちばんたいせつなものは、「時空」だと、私は思う(「資産」ではない)。
これだけは我々の能力のおよばないものだ。

 だから、私は他者の人生の時間をたいせつにしたいと思うし、脳死の子にすがる親の気持ちも「その時空にその人を構成する物質がその状態にある」ことをとらえようとしている凄さに感じ入るので、たいせつにしたいと思う。

 今わたしのサイドデスクには、ほうじ茶の入ったカップがある。今晩、私は、水で米を洗い、炊くだろう。
 木のデスク、茶、茶器を作る人がおり、ダムを作った人、水処理場で管理業務にたずさわる人がおり、米を作る農家がいる。輸送業者もいる。
私は、これらの人たちの働きによって、成立している。

 私はといえば、絵や音や言葉やコードを出力する。ご飯をつくったり、相槌を打ったりする。高齢の親の御用聞きをしたり、湿布を貼ったりする。人生に折れそうになっている人がいると、夜を徹してキーを打ったりする。私の働きは、誰かを、成立させている。

 私に「5」のことができるなら、「5.5」のことをできるようになろうとする。「5.5」のことができるようになったら「6」できればいいなと思う。その方が、たくさん与えられる。と、カッコつけて、そう書いてみたりする。単に、成長したがっているニューロンに引きずられているだけなのだろうなあ、と思いつつ。

 私は、他者の人生の時間のいくらかを受け取る代わりに、自分の人生の時間のいくらかを他者に提供する。「提供すべき」とか「提供した方がよい」、ではない。MUSTでも、mayでもない。ただ単に、そうしようと思うので、そうしている。

 ヘッセ「シッダールタ」に、次のような文がある。
 在野の哲学者シッダールタが、商社の社長カーマスワーミの元を訪れ、面接にのぞむシーンである。シッダールタは言う。

 「めいめいが受け取り、めいめいが与える。人生はそうしたものです」

 「働く」というテーマに関係のある内容なので、何年か前の、個人のWebサイトに載せていた雑文を転載する。昔に書いたものなので、上記の今日書いた文と違って、漠然としてはいるが。

 「何か前提条件がズレているような気がする」 2005年8月23日の雑文。

 パソコンに触り始めて25年近くになる。それを仕事にしているので、パソコン大好き人間だと、誤解されている。

 だが、わたしは、パソコンが好きでパソコンの仕事をしているわけではない。データを再利用したり反復作業を効率化するのに、パソコンは優れた道具だから使ってきた。ベテラン技能者のノウハウを蓄積したり、危険な作業を代替えするための、パソコン利用をうたってきた。データを共有するには、標準的なデータ形式を広める必要があるから、XMLの普及に努めてきた。

 アミューズメントの世界については門外漢である。日常生活でさえ複雑で回答のないゲームのようで、それを少しでもクリアして前進しようともがいている。そのような中で、さらに入れ子になってゲームをする気力と体力が、わたしには備わっていない。

 だから、淡々と、しかし一生懸命、作業に取り組んでいるだけだ。

 大人たちのいくらかは、なぜ、「職業 = 好きなこと」というように、単純な紐付けをしたがるのだろうか。

 そして、なぜ、若い人たちに、「好きなことを見つけなさい、そしてそれを仕事にすればよい」と伝えるのだろうか。

 好きなことを見つけられなければ、そこで、身動きがとれなくなるではないか。

 好きだろうが、好きでなかろうが、死ぬほどイヤ、というのでなければ、取り組んでみればいいと思うのだが。
 「好きなことではないけど、これなら、なんとかガマンできそうかな、まぁ、いっかぁ」ということを、まずは仕事にしてみればいいのではないか。

 職業候補の中から好きなことを選択するのではなく、職業候補の中から嫌いなものを消去していき、最後に残った職業にまずは挑戦してみる、という消去法でよいのではないか。

 そして、3年以上、同じ職場で頑張り、単に与えられた仕事を淡々とこなすのではなく、他の社員たちの仕事を見聞きし、自分の職場での商品や作業の流れを知るようにつとめれば、社会の仕組みのようなものがおぼろげながら見えてくる。もし、運よく自分が他にしてみたいことに気付いたなら、転職するもよし、職場経験を元にして、新しい道を自分の手で切り拓くもよし。

 無業者の中には、障害認定を受けられないが働けるほどには健康ではない人もいるだろうし、ウツやPTSDに悩む人もいるだろうし、中には特別な夢があっていまはパラサイトしているという人もいるだろう。
 だけど、無業者のすべてが、そういった「働きたくても働けない人」あるいは「家族の支援を受けて夢のために積極的に就業はしていない人」だけではない。(ここでいう「働く」は狭義の「就業する」という意味で使っている)

 何割かの、きっかけをつくる後押しさえすれば就業するであろう、体力のある人たちにまで、「好きなことを見つけなさい」。

 職業の選択基準が、好き嫌い?
 何か前提条件がズレているような気がする。

 わたしは、こうしてWebを公開しているけれども、計算機やインターネットの仕組みを考えた人がいて、パソコンの金属や樹脂などの材料を製造する人たちがいて、海底ケーブルの工事をする人がいて、光ファイバーの工事をする人もいて、Webサーバーのメンテナンスをする人たちがいて、そそういったありとあらゆる仕事をする人たちがいて、わたしはようやくWebページを公開できる。
 わたしには、それらの仕事を行う体力も能力も機会もない。私は、自分にできる方法で、社会に参加している。

 働けるかもしれないのに働くきっかけをつかめていない人の中には、インターネットに接続できる環境の人もいる。
 ケーブル工事なんて、危険と隣り合わせ。寒いなか、炎天下の中、汗水たらして働いている人たちがいるから、快適にインターネット接続ができるのである。

 なのに、額に汗して働き接続環境を提供しているのであろうその親たちでさえ、言う「好きなことを見つけてくれたら」。

 自分の持っている能力を、最大限努力して伸ばし、社会に還元してみたら?とは、言わない。

 なにか還元できるものは持っていないだろうか。なにか還元できるものを身に付けるために学んでみてはどうだろうか。パソコンが使えるなら、SOHOで作業はできないだろうか。サポートセンターの仕事はどうだろう。パソコンやインターネットが特に好きなわけではなくても、死ぬほど嫌いでないのだったら、それを仕事にしてみてはどうだろう。ものすごく好きなことが見つかるまで、待ちの姿勢を続けたら、年を重ね続けてしまうだけ。
 人生何歳になってもやり直しはできるけれど、無為にすごした時間は不可逆である。

 ......といったことを、なぜ、大人たちは、伝えようとしないのだろうか。

 あのぅ、仕事って、楽しくなくっちゃ、いけないんでしょうかねえ?

福島原発の現場はずっと現在進行形であるにもかかわらず、TVのニュースでは常時冒頭で数分でも触れるとか、そういうことさえ、とうになくなっているのが不思議です。そんななか今日はオンラインニュースが流れていたのでリンクを張っておきます。
福島第1、作業員たちは今 放射線と対峙、自ら突入…2000人の闘い 2011.9.20

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