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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

事故後の経過を注視する、原発立地県の、一住民の考え。

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今このときも、原発鎮静化に、命がけで取り組んでおられる作業者の皆さまには、一言もかける言葉がありません。
「原発よ、どうか、人の熱意に免じて、鎮まってくれ」と祈るばかりです。
がんばってください、なんて言えません。
現場は今、使命感だけで身体を動かしている状態ではないかと思います。
私には、祈ることしか、できません。
電源回復後の作業に、一縷の望みをつなぎたいです。

私は原発の設計については何も知りません。素人です。
だからこそ、ポンチ絵を見て分かったような気になったり、発表される数値に一喜一憂することは避けたいと思います。

ただ、私のバックグラウンドはITではなく重厚長大ですから、エンジニアリングの何たるかは理解していますし、技術集積地特有の事情は、実体験として知っています。また、研究者と、技術者と、技能者(作業者)の、立場の違いによって、視点が異なることも分かります。ですから、報道される内容については「誰の発言を信じるか」ではなく「何を信じるか」でもなく、「何が妥当だと直感するか」で、自分なりの判断をしています。

もっとも、これは構造物でなく、ソフトウェアであっても同じです。ある問題に対して、スーツが「大丈夫」と言ったものに対し、ギークが「問題」を投げかけることもあります。研究者は「理論上正しい」、実装者は「理論と現場は違う」と言うものです。

この事故は、私にとっては、対岸の火事ではありません。福島3号機と同じプルサーマル発電施設から50kmの地点に住んでいるのですから。30km圏内には友人や知人がいます。

エンジニアリングと、ビジネス。
技術に対する、恐れと、信頼。
安全は、それらのバランスの上に成立します。

私の原発に対する考えは、ずっと変わりません。もっともそれは、原発に限ったことではなく、「研究は積極的に、実施は慎重に」、「作る前に、捨てる方法を考える」、「あえて形にしない研究があってもいい」、というものです。

ところが原発は、私が投票権を得た20歳のときには既に稼働していたわけで、次のような考えになります。
新規建設にあたっては立地場所となる一自治体だけでなく近隣自治体にも十分な説明を行い、寿命を超えた設備の延命措置は講じず、住民の節電を推進しながら、環境負荷(放射性廃棄物、温排水、廃炉後跡地)の軽減と代替エネルギーの研究を推進していけばよいのでは?といったところです。

しかしながら、供給をどうするかという問題があります。
私の居住する県の電力の状況を調べてみたところ、電力会社のデータをもとにした単純計算では、原発3機のうち、2機稼働で、7年前の最大電力需要を若干上回ります。しかし、それでは、ベース部分が20%強にしかなりません。節電、家電の省エネ化、住宅の太陽光発電設置促進で、需給のバランスをとれるかどうか微妙なところです。
今回の計画停電の結果は、住民の自助努力による節電の可能性について、何かしらの方向性を示す材料になるかもしれないと思います。

基準見直しや評価結果を受けての実施が、何カ月も何年も先になると、その間に、東南海・南海地震の発生する確率が高まりますので、早急な検討がなされることを願うばかりです。
ただし、現時点では、東電への協力送電の可能性もあるでしょうから、しばらくは電気を融通できるように3機の安定稼働が必要なのだろうと思っています。

終日PCとエアコンを使っていて、これでは説得力がないかもしれません。
たしかに私は、事務所兼住居で、電気をたくさん使っています。ところが、方丈の庵の暮らしぶりなので、エコロジカル・フットプリントは、業務用を含めて地球1.2個分(自家分のみなら0.7個分)です。一言二言の発言は、お許しいただきたいと思います。

原発に関する話題は、これまで、こういった公の場で口にすることができませんでした。なにしろ、地方紙によれば、10~20km圏内ですら住民が避難方法を知らないという、良く言えば呑気な土地柄です。プライベートで天災による事故について言及する度、杞憂扱いされて数十年、すっかり無口になってしまっていた自分の不甲斐なさを嘆くばかりです。
しかし、今では、ネット上に、自由な意見が数多く見られます。
誰でも率直な意見や提案を述べられる状況が続いてほしいものだと思います。

なお、私の個人事業所では、寄付には愛媛新聞社の震災基金を利用しました。
地方在住者で、どこに寄付すればよいか分からない人は、新聞を見るとよいでしょう。

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