模様替えをしていると、くだらない考えが、浮かんでは消え。
年末に罹患した突発性難聴だが、聴力はほぼ回復した。
疲れるとひどくなる耳鳴りと耳の奥の痙攣だけが、残っている。
難病情報センターのWebページには再発はしないと書かれているにもかかわらず、ネット上には再発した人たちの情報が散見される。
彼らは突発性難聴ではなかったのか?それとも、根本原因を取り除かないまま、(いや、おそらくは、取り除くことすら叶わず)、対症療法と休養で一時的に改善はするが「回復はしておらず」、再発したように見えるのか?
完全回復を目指す私は、原因のひとつである環境ストレスを減らすべく、発症から1週間経った時、事務所兼住居の大幅な模様替えに着手した。
安静を指示されているなかで動くなど、一種の賭けであって、このような無謀なことは誰にもお勧めできないが、すくなくとも私の場合は、吉と出そうだ。
昨日は仕事のレス待ちであったので、集中的に作業を進めた。
ラックを組み立てケーブルを引いていると、「くだらない考え」が浮かんでは消える。
その一。
インタラクティブ・エアー・ファニチャー。
デジカメで部屋を撮影して、Webサイトで好みの家具を選択し、画面上で、家具の位置をドラッグ&ドロップしながら、置き場所を検討する。ただし、選んだ家具が納品されるわけではない。レイアウトを決定すると、その位置からエアーが吹き出す部屋になっているのだ。リアル家具はないが、リアル・ティーセットの盆を浮かべてお茶を飲んだり、ふわふわ浮かんで眠ることができる。
それらの家具には、当然のことながら、木やスチールや生地の手触り...といった違いは、ない。
皮膚と脳は同じ外胚葉から分化するので、皮膚への刺激が全く異なる環境に育てば、脳の成長の仕方も変わるかもしれない。
全く新しい、我々とは異なる人間が現れ、増えていくかもしれない。
それがいけないことだとは思わない。新しい世代は、彼らの環境のなかで生きていくために適応するだけである。ただ単に、そうなるのだろうな、と思う。
...そんなこと、あるわけない?
だから、「くだらない考え」なのだ。
その二。
私の作業場は和室で、ダークブラウンとブルーを基調にしているため、余ったLANケーブルのブルーの輪は焦茶のリボンで束ねて違和感がない。だが、もっとキュートな部屋にしたい人たちはどうするのだろう?
「オーダーメイド、豹柄LANケーブル」とか、「5cm間隔でラインストーン付き、きらきらレインボー!デコケーブル」とか、あってもよさそうなものだが。
ついでにいえば、地味な存在なのに自己主張の強すぎる、ド派手な「デコンセント」などあれば、笑える。
パンの袋をしばっていた金銀のビニタイや、地蔵味噌の甘酒の口をしばっていたピンクと白の縞模様のビニタイで、スパゲッティ化しているケーブル類をまとめながら、人気キャラのマスコット付きビニタイ...などが浮かぶ。
ああ、くだらない。何を考えているんだ、私は。
その三。
聴力検査を二度受けたときの感覚を、反芻している。
一回目。音が聴こえたら、すかさずボタンを押していた。すると、検査技師の人から「そんなに慌ててボタンを押さなくてもいいですから」と言われてしまった。慌てているつもりはなかったので、戸惑う。
1週間後の再検査。
今度は、「音が聴こえた」時点ではなく、「音が聴こえたことを意識した」時点で、ボタンを押さなければ、と思う。
そして、音が聞こえ始めてからボタンを押すまでの、自分の「状態」をモニタリングしてみる。
私の耳が音をとらえ、しかし、頭の中には何の考えも浮かんでおらず、聴こえてはいるが、聴こえていると「明瞭に思ってはいない」時間が、ある。そして、いくらか後に「音が聴こえている」ことを意識する。この段階で、ぼんやりと言葉による思考に切り替わる。そして、「聴こえている、ボタンを押そう」と意識して、ようやくボタンを押していることに気付く。
この社会でもとめられる思考には「言葉は不可欠」である。
だが、20代後半になって(大量の文章を書いたおかげで)、ようやく(概念やイメージや音ではなく)言葉という道具を使って考える習慣を身につけた私にとって、意識とは、言葉と結びついているようもののように思えてならないのである。
そもそも「意識する」とは、どういうことなのか?
と、ラックの板に、連結具を打ちこみながら、自分に問いかけてみる。
ああ、くだらない?
いや、そうでもないか。