「読書喫茶」に行ってきました。私は好きです、この店の雰囲気。
南の道路に面した半地下の引き戸。戸の上に、洒落た右上がりの店のロゴ。FLから始まっているが、樹木の陰に隠れて見えない。
小さな引き戸を開けて入ると、目の前にあったのは、わずか数基の書棚と事務机だけ。半地下で窓もなく、10畳ほどのスペ―スが、いっそう狭く感じられる。
本はといえば、純文学のみである。昔の公共図書館で埃をかぶっていたような本ばかり。古い日本文学のタイトルが目につく。知らない作家の名前も見受けられる。
50がらみの男性店長と、2人のアルバイトらしきスタッフ。
店の右手に階段がある。ステップの幅が狭く、下が透けて見える塗装された金属の階段だ。一冊、國木田獨歩を借り、足元を見ないようにして階上に上がると、そこは広々とした喫茶室になっていた。西側が全面窓になっており、壁だけリフォームしたのか妙に白く、アングラに傾きがちなイメージを打ち消している。昔のデパートの大食堂を小規模にしたようなレイアウト。10数個のテーブルが、比較的ゆったりと、置かれている。各テーブルには4脚の椅子があるにもかかわらず、10名ほどの客はといえば、1つのテーブルを占拠し、ポツリポツリと離れて座っている。人口密度が低い、というのが第一の印象だ。客たちの意識は本の中で完結している。が、決して疎遠ではない。それぞれの世界は、この空間の中を揺蕩いながら、拡がり、重なり合っている。
目をやった西側のテーブルには一人、痩せた20代とおぼしき男性。目の前にはガラスの器。クリームソーダか。仰々しいグリーンが窓からの光に、ゆらゆらと漂っている。飲み物の存在を忘れたかのように、視線は本に釘付けだ。
照明は、決して明るくはない。目に悪くはない、と思われる程度の明るさ。静かだ。時折、氷の溶けて動く音が、響く。ここには、意図した音がないのだ、と気付く。「喫茶」とはいうものの、BGMが、全く流れていない。客の醸す雰囲気もあるのだろうが、どこかしら、妙に落ち着いている。
ウェートレスはいない。半ばセルフである。本を借りるときに飲み物を注文すると、店員が作ってカウンターに置いてくれる。客が自分で取りに行き、自分でカウンターへ返す。「喫茶」という名にもかかわらずメニューに珈琲は見当たらない。ああ、そうか。色も音も香りもなく、本を読むことに専念できる空間となっているのだ。
本は、置き場所に悩む蔵書家からの寄贈品や、図書館からの払い下げなのかもしれない。元手をかけているようには見えない。そもそも店主に「経営者」の雰囲気が全くない。
なぜ、このような店を?無口な店主は喋らない。
「今では、古い紙の本は、貴重ですから」とは、店員さんの弁。建物を改修したり防音設備を追加して積極的に消音するのではなく、消極的に音から逃れた場所を町中に確保して提供する、ということも貴重なのだとか。
すでに陽が翳り始めており、読み始めるや、閉店までには読み切ることができないような気がして、見学させてもらったことに対し礼を言い、店を後にした。
一歩外に出るや、そこには別世界が広がっていた。
賑やかな公園。ヘッドフォンで音楽を聴きながら、電子書籍に見入っている人たちの姿。
往来の音、街頭の広告の音声、私の脳は音に曝され、音にまみれる。
耳の奥、右脳の中を放物線を描くように、食べ過ぎた時の胃の不快感のような感覚が、鈍く居座る。
ああ、この世界の方が日常、この世界こそが現実なのだ。
この読書喫茶を訪れた人たちは、街中に、こんなに身近に、別世界への入り口があったのだ、と驚くだろう。
だが、驚きはしても、二度足を運ぶ人は、さほど多くはないかもしれない。
昔のようなタイプの本は、面倒くさいのだ。体感したと勘違いするほどまでに、ありありとしたイメージを脳内に形作る能力をもとめられる点において。
今や具体的な映像が音が、読者のために、3次元の世界を作ってくれる。作家が読者の方へ一生懸命に歩み寄ってくれる。読者が、作家の精神に近づく必要はない。イメージするために脳を働かせなくてもいい。そんな機能を使うことは、もう億劫だ。
人々の関心は、この世界を、いかにうまく生き伸びるか、その指南をしてくれる情報を得ることにあるが、そのような情報すら飽和気味だ。
いくらか前、我々は心の表面が直接触れ合うことのないように、緊張を維持し、距離を取りながら生きていた。互いの持たざるをえない刺の鞘となるよう、また、ほつれる思惑を繕うために、細心の注意を払いながら言葉を選んだ。
が、いまや言葉は、符丁になりつつある。もはや掛け声と等価になりつつあるのかもしれない。
大して意味を持たぬ言葉に気遣いなんぞ不要だ。
言葉を選ぶだって?バカなこと言っちゃいけない、言葉は発すればいいだけのものじゃないか。それ以上でも、それ以下でもない。言葉を受け取る側だって、意味や意図を探っちゃいけない。意味を考えて傷つくなんて、そんなの大人のすることじゃない。
脳を酷使し一言に悩み苦しみ血を吐くように言葉を吐く、そんな過去の遺物の行為に、君はまだご執心なのかい?
深遠な言葉は、眠りについた。
後日、ふたたび、あの読書喫茶を訪ねてみた。
そこには、何もなかった。半地下の入口があったはずの場所はガードレールになっていて、店の敷地だったはずの場所は整地されていた。
流行らず、店をたたんだのか?それとも、流行り過ぎて、客が増え、あの静けさ、あの雰囲気を維持できなくなったのか。
いや、違う。もとよりそこには、何もなかったのだ。
その店は、私しか見ていないのだから。
※本稿はフィクションです。また、筆者の何らかの主張を述べたものでもありません。あくまで、ひとつのネタです。