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ライフワークとしての学びを考えます。

孤独なリーダー

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1962年12月、指揮者の小澤征爾さんは、東京文化会館の指揮台にたった一人で立っていました。
 
フランスで開催されたブザンソン国際指揮者コンクールにおいて、日本人初の第一位入賞。そして、カラヤンやバーンスタインといった欧米の音楽界を牛耳る巨匠のもとで研鑽を積んでの華やかな凱旋。
その後小澤さんは、1961年よりNHK交響楽団(N響)と契約し、演奏会を行っていたのですが、小澤さんのやり方と、N響の特にベテラン奏者との間に音楽的なすれちがいが生じ、徐々に不協和音が大きくなっていきます。
 
ついにN響は、25歳の若い小澤さんに対する反発を強めてしまい、1962年、年末の演奏会を土壇場でボイコットしてしまいます。これが有名なN響事件です。
 
小澤さんは、「ひとりでも演奏会場に行きます。演奏会の契約はしているのですから」と言って、上野の東京文化会館にやってきたのです。もちろん演奏会は行われませんでした。
 
その後小澤さんはN響を辞任し、「もう2度と日本で音楽をするのはやめよう」と思い、アメリカに渡ります。
 
「私も生意気で、どちらも多少あったかもしれない。マスコミに書きたてられて、僕は日本ではだめだ、外国で頑張ろうという気持ちにさせてもらった」
と後に語っています。
それからの小澤さんの国際舞台での大活躍は皆さんもご存知の通りです。
 
なぜこのようなことが起こったのでしょう。

小澤さんは、桐朋学園という当時新しい学校で指揮法を学び、その後欧米のオーケストラで勉強してきました。
両者の学びの場に共通しているのは、音楽においての年功序列はない、実力主義の考えであったことがあげられると思います。
リハーサル・スタイルはアメリカ的で、指揮者の音楽性を表現するために、団員に細かく指図する方法でした。
オーケストラはトップダウン。音楽の場では指揮者の指示に従うという考えです。
それまでの日本の指揮者は、全体を掌握して指揮するやり方であったため、小澤さんの方法になれていないオーケストラが困惑するのも当然だったかもしれませんね。
 
しかし、1995年1月23日、小澤さんはサントリーホールにおいてN響と32年ぶりに演奏会を行っています。
N響との関係は修復されたのですね。
現在、N響も日本を代表するような素晴らしいオーケストラとなって私たちに感動を与えてくれています。
 
音楽をするために、敵を作ったとしても自分の考えを貫いた小澤さん。
単なるいい人なだけではリーダーは出来ないのですね。
ボイコット事件で、ぽつんと一人でホールに立っている写真を見たことがあります。
孤独であったと思います。
その辛い経験があったからこそ、アメリカでの活躍があり、その後世界のオザワになっていったのでしょうね。
 
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