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著作権(使用許諾権)の制限は利用を促進するか

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※今回の話には前提条件が必要になるようです。栗原さんのエントリ「著作権法における同一性保持権と「おふくろさん」について」のコメントで触れられているとおり、たとえばクリエイティブコモンズで著作者が自由に使ってよいと意図している場合でも、著作権法(著作者人格権の一身専属性)によって、著作物の自由な利用に懸念が生じる可能性(見解)があるという問題です。著作者も利用者も合意し、公序良俗にも問題ない使い方を法律が脅かすとは信じがたいのですが、wikipedia でも触れられています。もちろん、このような解釈には断固反対と申し上げておきます。また、この懸念がなくなる、つまり著作者と利用者の合意が得られた場合には、著作者人格権が行使されないことが保証されるような改正は(それが必要なら)望みます。ただし、以下では、そのような可能性はない(=過度な解釈は権利の濫用と判断される)前提で話を進めます。

先のエントリでは、ファイル交換を万引きにたとえて説明しました。やや過激な表現かもしれませんが、このたとえを利用してみます。たとえば、パン屋で30人の客のうちひとりがパンを万引きするとします(万引きする人は“客”じゃないという理屈は忘れてください)。この場合、万引きした人が取り締まられます。しかし、30人の客のうち20人が万引きするような状況になったら、20人を取り締まる代わりに全員にパンを配ることを考えるのではないでしょうか。その代わり、パン屋に対価を払うための税金を引き上げる必要があります。正規の対価を払う人にパン(著作権)を渡す(許諾)代わりに、別の仕組みを使って対価を回収し、パン屋に適切な報酬を与えるわけです。

ちょっと共産主義くさい(※)かもしれませんが、身の回りにも同じような例はあります。たとえば、NHK は視聴の有無に関係なく受信料を徴収し、誰もが見られる状態でスクランブルをかけずに番組を放送しています。NHK に限らず民放や無料誌のように広告モデルで運営されているものもあります。これらは許諾の要らない複製を認めるものではありませんが、とくに NHK のようにコンテンツの利用状況と収入源が連動しない場合は、(許諾に関わる権利を持つと想定すれば)複製を自由化しても問題はありません。以前のエントリ「思考実験「音楽配信法」と包括ライセンスの幻想」は、この発想を音楽の配信にあてはめたものです。
※実のところ、wikipedia の「共産主義」の項目には「日本は「世界で唯一成功した社会主義国家」と言われることがある」という記述があります。感覚的に当たらずとも遠からずという印象があり、皮肉ではなく、こうしたビジネスモデルの導入に向いている国なのかもしれません。

さて、現在のファイル交換ユーザーは30人に一人しかいないため、音楽配信法を導入するのはナンセンスですが、これが30人に20人に増えた(あるいは導入を契機に増える)と想定すれば現実味を帯びてきます(←ナイナイ)。音楽配信法は、たとえば EFF(Electronic Frontier Foundation)が提案している自発的支払いによる音楽ファイル共有の考え方よりも「DRM(著作権管理機構)有り」「中央集中型のアカウント制でユーザーどうしの楽曲交換は不可」「対価の徴収は強制」といった強い制約がありますが、EFF でも ISP を通じた包括的徴収という形態は想定されているので、問題は最初の2つでしょう。これらを“利用者の望むとおり”、許諾権の代わりに報酬請求権を与えるように著作権法を改正するとします。どんな世界になるでしょうか。

何度か書いているとおり、インターネット上で許諾権を喪失することは、国外にも影響するため、徴収機構の及ばない海外からの利用が防げなくなります。かといって邦楽のみを対象にし、外国曲を対象にしないことは、間違いなく不公平感を生むので、米国や中国などを含む主要国全体で同じ制度が導入されるという(ほとんどありえない)状況を想定しなければなりません。ここで、物価の差を忘れたとしても、一人当たりの負担額を増やさない限り、(利用人口が一定なら)市場規模は拡大しなくなります。メディア企業が自ら音楽市場を拡大しようという投資意欲は損なわれるでしょう。あるいは、業界は常に負担額を増やすような改正を求めてくるかもしれません。また、DRM がなければ、二次使用や再配信に歯止めがなくなり、正確な楽曲交換数も把握できません。今でも JASRAC の包括徴収の配分比率に不信感はあるようですが、正確性を欠くようでは著作権者にとって深刻な問題となります。対価の公平な支払いを行うためには、何らかの基準を確立することが求められますが、私には解決策は思いつきません。

インディーズ・アーティストは既存業者に頼らず、起業する選択肢も残したいところですが、こうした新規参入を認めると悪質な業者が低質な楽曲で割り前を取ろうとするかもしれません。ほとんどの業者が善意であったとしても、一部の不正業者が入り込むことで全体に悪影響を及ぼしかねないのです。今日において、とくに多額の利権が絡む場合は、善意を前提にした仕組みの維持に多大な困難がともなう(または不能)ことは明らかです。このような状況が、文化の発展に貢献するとはいえないでしょう。

実のところ、このような法改正を行わなくても、自由な利用を認めるコンテンツがクリエイティブコモンズという形で登場しています。冒頭に書いた懸念を別にすれば、著作権による縛りを受けないコンテンツはあるわけです。ただ、現在クリエイティブコモンズに登録されているコンテンツが、著作権に保護されたメディア企業のコンテンツほどに利用されているかどうかは疑問です。利用が促進されるのは、無料か有料かの違いだけでなく、お金をかけたプロモーション、(CD を作るなら)その制作や販売店・流通との交渉など、さまざまな要因があるからです。そして、実際には後者の方が大きな要因となるでしょう。

もちろん、商用楽曲の中には、クリエイティブコモンズより利用頻度の低いものはあるかもしれません。しかし、より多く利用されている楽曲のほとんどは、無料の楽曲ではなく、こうした商用楽曲なのではないでしょうか。そして、私が見る限り、自由な配信を求める声は、すでに自由な無料の楽曲よりも、お金をかけてプロモーションされた楽曲に向けられているようです。このような状況では、著作権(許諾権)の制限は、一時的には商用楽曲の利用を促進しても、長期的には企業の制作意欲を損ない、強くプロモーションされない楽曲ばかりになる、つまり楽曲の利用は促進されないように思われます。

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