性善説と性悪説について思うこと
本日から「私の取材ノート」とタイトルを変更して、引き続き「ブログ活動」をさせていただきます。あらためて日常の取材活動の中で、ふと感じたことや、これはすごい、あるいは、これはおかしい、と思ったことを、書き留めていくつもりです。
先日、あるオンライン記事で、フリーの百科事典「Wikipedia」の創始者であるジミー・ウェールズ氏が、ネットコミュニティの構築において何より重要なのは「他人を信頼すること」だと話していました。つまり、性悪説ではなく性善説で取り組まないとだめなんだと。この発言に、私はハッとしました。はっきり言って私は、匿名で勝手なことを発言する、もしくは平気でなりすまして人をだませるネットの世界が、好きではありません。つまり、基本的に信用していません(このブログを書いていて言うのも何ですが…)。
しかし、ウェールズ氏の言うとおり、性善説の発想で考えると、確かにネットの良いところがいろいろと浮かび上がってきます。コミュニティやWikipediaの存在はその象徴かもしれません。
性善説と性悪説――実はこの比喩を、私はセキュリティの話をするときによく使っています。とくに企業内のセキュリティ対策は、とかく性悪説になりがちで、本来、性善説で経営を行ってきた日本の企業がその対策に取り組むには、経営者のしっかりした見識と説明責任が不可欠だというのが、私の持論です。つまり、社員の「私たちを信じていないんだ」という本音をどう感じ、その気持ちに対して経営者としてどう説明していくのか。「セキュリティ対策は大切」だけじゃだめなんだと思います。
セキュリティの話についてはいつもこんなことを言ってる私ですが、ネットの世界についてはいつの間にやら、完全に性悪説に浸り切っていました。ブログにしてもみんなよくこんなにも自分のことを恥ずかしげもなく出せるなと思っていました。誰が見てるかもわからないのに…。
でもウェールズ氏のコメントを読んで、ちょっと自分自身の見方を変えてみようという気になりました。ネットの世界も性善説に立って見ていこうと思います。とはいえ、匿名性を肯定したわけではありません。発言するなら匿名は卑怯――この思いは今後も変わらないと思います。
久しぶりに書いていると、つい長くなってしまいました。これからは短いときもあると思いますが、がんばって続けたいと思いますので、どうぞ、おつきあいのほどを。