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ITが無いと生きていけないのに、アナログな日々

自尊と虚栄

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このところ古典を読み返しています。大学受験の時に読んだことになっているそれらのものを何故だか最近とても読みたくなるんです。意外と受験の時に勉強した古典文法って覚えているものですね。古文の美しいリズムに酔いしれます。

『大鏡』、『平家物語』を読み、今日、『枕草子』を読み終えました。学校では、『源氏物語』が「もののあはれ」の文学で、『枕草子』は「をかし」の文学だと習った記憶があります。しかし、今回読み返してみて、『枕草子』は、自尊と虚栄の文学だなあと思いました。

「私は、こんなに才能があるのよ」と時に読んでいて鼻につくほどの清少納言の態度は、それほどまで中宮定子に一番気に入られたいのかなあと、なんとも1000年前から人間の行動は変わらないのだなあと可笑しくなりました。会社にもいますよねえ、偉い人の前で妙に自分をアピールしちゃう人。しかし、『枕草子』は、もともと他人に見せるために書かれたものじゃないので、実際は、中宮定子に嫌われていて、その寂しさの反動じゃないのかなあと天邪鬼な私は思ってしまったりします。

『枕草子』には、煌びやかな栄華の宮中でのお話がほとんどです。道長の時代になり、後ろ盾を失ったその後の不遇な出来事は一切書かれていません。落ちぶれて、昔の栄華を懐かしんでいるのか、落ちぶれてまでも虚栄の篝火にすがっていたのか、いずれにせよなんとも人間的な切なさがあります。

一方で、彼女の自然への賞賛と憧憬の眼差しや平安の宮中での日常を綴った女性ならでは視点には脱帽です。めったに無いものとして、「主人の悪口を言わない家来」とか「女の友情」などをあげているのが可笑しかったです。

1000年前から変わらぬ人間の心と気持ちに気恥ずかしくなったり、ほっとしたり。大衆が良いと言っても自分は違う、自分が良いと思うものを他人は良いと言わないなど、清少納言と自分は似ているなあと妙に親近感もわきました。

自尊と虚栄、人生を二語で表すとこれかもしれません。時を越えた人間の普遍性を感じました。

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