カタカナ和製英語について考えてみる
英語習得の稚拙
日本人の英語習得に対する情熱の高さは相当なものだといつも私、大塚は関心しています。
ところがこれがなかなか苦戦していることも事実です。
何が妨げているのか、とつい思案に耽ってしまうのは1回や2回では済みません。
すでに英語をマスターしている優秀な人たちの多くは、必要に迫られれば語学なんてすぐに身に付くもの、といった少々手荒い意見を持っている人たちもいます。
他には、英語のリスニング自体が、日本語を聞き分けることに慣れ親しんできた日本人にとっては、全く別の耳が必要、つまり発声の音声帯域が全く異なるので、相当に根気の要る訓練・時間が必要、といった意見もあります。
しかし私には、我々の英語習得の妨げとなっているもう1つのファクターが存在しているように思えて仕方ありません。それは以下の存在です。
カタカナ和製英語の存在
これも度々指摘されることですが、全くもって私もカタカナ和製英語の存在ほど、英語習得の邪魔をしているモノも他にはない、と思っています。
それは筆者が英語を学んでいるチューターとのやりとりでも、十分に痛感させられました。
キプロス→全く通じませんでした。・・・正解は「サイプロス」です。
他にも、ビタミン→全く通じませんでした。・・・正解は「ヴァイタミン」です。
このようなことがレッスンの間で頻繁に生じていることを通じて、とうとう私も初めて発生する単語(それもカタカナ和製英語に存在している)について、カタカナそのままで通じるのかどうか、いちいち疑心暗鬼になってしまい、気持ちが縮こまってしまうようになってしまいました。
もちろん、たまにはカタカナ和製英語とほぼ発音が同じ場合もあります。さらに、英単語を思い出す場合にカタカナ和製英語の存在が役に立つ場合もあります。
それでも、トータル的にはデメリットの方が多いように感じています。
いっそのこと、カタカナ和製英語のすべてを本物の英語発音と完全に一致させるという大改革ができないか、さらにもしこれができれば、どんなに英語習得を助けてくれるのか、といったようなことを考えてしまいます。
ただカタカナ自体の書体としては、意外と外国人から高い評価を受けていたりします。
日本語において、漢字とひらがなとカタカナが混じっている姿が美しい、といった意見があるのです。
逆の側面ではこれがまた外国人にとって、日本語習得の壁になっているのかもしれませんが。
いずれにしても、カタカナ和製英語の存在によって今後も筆者は英語習得の足を引っ張られそうな気がしているのです。