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500ページのマニュアルは燃えるゴミ、あるいは合理性の罠

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★500ページのマニュアルはアリかナシか
業務とシステムのマニュアルをどう作るか議論していたときの会話。

僕:  「で、結局どれくらいのボリュームになるの?」
同僚:「見積もった結果、500ページになります」
僕:  「マジ?それ作るの?」
同僚:「はい、2ヶ月かければ何とか作りきれるんではないかと」
僕:  「いや、作れるかどうかじゃなくて、作るの?」
同僚:「・・・。」
僕:  「そんなの誰も見なくない?もっと短くならない?」
同僚:「必要です。削れません。」
僕:  「・・・。いいからダメなものはダメ。誰も見ないマニュアルは燃えるゴミだから」


「ダメなものはダメ」と書くと理不尽なダメ出しに聞こえるかもしれませんね。今日は「積み上げの合理性の罠」の話をしたい。

★なぜ500ページのマニュアルがダメか
なぜダメかというと、もちろん多すぎるから。
このマニュアルの対象業務は、会社の全業務などではなくて、あくまで一部門の限定された業務。それを説明するのに500ページが必要というのは、いかにも多い。

多すぎるマニュアルを使ってもらえるようにするのはかなり難しい。マニュアルの読み手が自分の知りたいことにたどり着くように、うまくナビゲートしなければならないからだ。
一から読むのではなくて、辞書的に使うことを想定していたとしても、業務でイチイチ引っかかり、その度に辞書的マニュアルに首っ引きになる、というのは業務担当者の身になってみると、耐えられない。


★なぜ500ページのマニュアルがダメだと思わないか
僕が気になったのは、なぜ「積み上げの結果必要だから必要」と考えてしまったのだろうか?ということ。しかし、これは良く陥る罠だと思う。

「丁寧に積み上げて出た結論は、総論として何かおかしかったとしても、Noとは言いにくい」

特に、積み上げて考えた本人は、そのプロセスに納得している。今回の例だと「なぜ500ページにもなってしまうのか」について、本人なりの理屈がある。説明しようと思えば説明できる。
論理的に説明できてしまうからこそ、他の人からみたら「その結論どうよ?」と思うようなことでも、自信を持って「必要です!」と断言できる。


なぜこういうことが起こるかというと、当人が積み上げて考える時に「考慮できていないこと」があるからだと思う。

この例の場合は
・業務を正確に行うために必要なこと(イレギュラーケースなども含め)を網羅しているか
・分かりやすい図や絵が使われているか
・お客さんに納品する成果物として十分か
についてはよく検討してあったのだが、肝心の「使う人にとって、使いたくなるか?」
という観点がごそっと漏れていた様に思う。

その致命的な1点を除けば合理的だった。
つまり「限定的な合理性」を追求していたのだ。


これを読んでいる皆さんは、このことを笑えるだろうか。今回のように1時間検討した結果にダメ出し喰らうだけならまだしも、半年間練ってきたビジネスプランやプロジェクト計画が、「立場が違う人から見ると、全く受け入れられない結論」になっていないと、自信を持てるだろうか。

★合理性<妥当性

この罠に対しては、僕のバーチャル師匠であるワインバーグの言葉を捧げたい。

「合理的であるな。妥当であれ」

この言葉は色々な解釈ができるが、僕はこう考えている。

合理的に論理を積み上げて考えたとしても、結論が出たらその検討経緯や論理はいったん忘れて、「これで行けそう?問題ない?」と自問自答チェックをしよう。
自分の奥底の声が「うーん、ダメかも」とささやいたら、それにキチンと耳を傾けよう。

この時、合理的に考える際に必要なパーツのうち、どれが欠けているのか、までは分からない。でも「何かが欠けている」はたいてい分かるし、それさえ分かれば立ち止まって再検証ができるはずだ。

この手の自問自答チェックは、やりさえすれば簡単なのだが、「必要なタイミングで必ずやる」というのは案外難しいものだ。僕もやり忘れる時がある。
かかさずやる自信が持てないうちは、誰でも良いから他人にチェックしてもらおう。上司なんてそのためにいるものだし、はっきり言ってくれる人なら、別に部下に頼んでもかまわない。

そうすることで、燃えるゴミを一生懸命作ってしまうリスクは随分軽くなるはずだ。

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