質問は世のため人のため
「皆さんの質問、楽しみにしていますね。ぜひ、お願いします。」
そうやってSli.doのURLとEvent Codeを画面に表示し、質問をお願いする。そもそも、質問はこちらがお願いするものではなく、受講者からお願いされるものであろう。しかし、そんな偉そうな態度では、「おまえ、何様のつもり?」とか思われるので、穏やかな笑顔を絶やすことなく、お願いする。
それでも、最後まで質問が出ないこともある。そんなときは、最後に、こんなことを申し上げて、質問を促すことがある。
「皆さんは、ご自分のお子さんに、"分からないことがあったら、先生に手を挙げて、質問しなくちゃダメだよ"と言うことはありませんか?もし、そうだったら、まずは、親が見本を示すべきですw。」
それでもなかなか手が上がらない。そこで次のように申し上げる。
「本日は、講師料の範囲で質問にお答えさせていただきますから、みなさんの個人負担はありません。ただ、明日以降のご質問は、一件につき5万円を給与天引きで頂くことで、さきほど人事の方とは合意しておりますw。」
さあ、どうだ!ここまで言ったんだぞ、さあ、質問がくるぞと身構えるものの、質問は出てこない。
オンラインになり、質問が出やすくなるかとおもったが、この傾向はあまり変わらないようだ。
正直なことを言えば、質問に応えるのは、とても疲れる。鋭い質問であれば、ヘタな回答はできないから、やはりそれなりの答えをしなくてはと、脳みそをフル回転して答えをひねり出すから、頭がハゲ上がるのではないかと思うくらいに疲れる。一方、それはあんたの自慢話じゃないのかとマウンティングを仕掛けてくる質問もある。そういう人にも、丁寧に応えなくてはならないので、はらわたと顔面筋のアンバランスに耐えなければならないので、これも疲れる。「これはどういう意味ですか?」みたいな、そんなのググれば直ぐ分かるだろうという質問をする人もいるのだが、これはこれで相当疲れる。
ただ、質問されるというのは嬉しいものだ。私の話をちゃんと聞いてもらえたという証しでもある。また、質問を頂くことで、こちらも考える機会が与えられるし、なるほどと思わぬ気付きを頂くことも多い。質問とは、講義をちゃんと訊いていましたよという、講師への敬意の表明であるとともに、講師にとっても学びの機会であり、嬉しいものだ。
しかし、そんなことに気付いている人は、あまりいないようだ。「つまらない質問をして、自分がまわりから変な目で見られるのが嫌だ」と言うことなのだろう。あるいは、「こんなつまらない質問しちゃうと、講師に失礼だ」などとお考えなのかも知れない。
しかし、変だとか失礼になるとかは、自分勝手に評価しても分かるわけがない。口から吐き出してこそ、分かることだ。そうやって、自分勝手に自分を磨く機会を失っていくわけで、これはもう残念としか言いようがない。
それでいて、講義が終わり、帰りの支度をしていると、ちょっといいですか?と質問をする人がいる。それはそれでありがたいのだが、だったら最初から質問してよと思うわけです。
企業研修などでは、事務局が社員に質問を促すことも多い。エライ人が、礼儀とばかりに質問をすることもある。それは、礼儀としての質問なのであまり考えていなくて、トンチンカンの質問をされることも多い。そりゃあ、そうですよ、ほとんど寝ていましたからねww。
「質問することはいいことだ。質問は正義である。」
そんなことを言いたいわけじゃない。でもね、質問は、間違えなく自分を成長させる機会である。いい質問とか、悪い質問とか、そんなことを自分で勝手に評価できるわけがなく、外に出して見ることでしか分からない。そんな経験を繰り返し、質問力は磨かれるし、言葉を磨く機会となる。
自分の質問は、他の人の知りたいことであるのかも知れない。それを質問することでまわりの人に学びの機会を提供できる。
講師は講義での話し以外にいろいろと弾を持っている。それを引き出し、講義のコスパを引き上げることにもなる。
講師の話を聞けば、賢くなると言うのは幻想である。たとえ質問の言葉を発することがなくても、人の話を聞きながら、どんな質問をしようかと常に考え、その質問をメモしながら講義を聴くと、とても理解が深まってゆく。真っ当な講師なら、その答えを講義の中で話してしまうが、100%ではない。その残りを質問すれば、自ずとそれなりの質問になる。講師にやられた!と思わせることができる。そういう質問こそ、講師冥利に尽きるというものだ。
質問は、自分のためであるが、他人のためでもある。その場にいる受講者に気付きを与え、講義のコスパを高めることであり、講師への敬意の表明だ。講師もまた学びの機会になる。ありがたい。そんなふうに、質問を考えてもらえると嬉しい。質問が増えれば、ほんとうにいい講義になると思うのだがなぁ。甘い考えだろうか?