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多民族国家日本の実感 多賀城の地で蝦夷を思う

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以下、私の想像の範囲内のことも書いているが、それは、多くの考古学の本や、宮本常一氏や、網野喜彦氏を代表とする民俗学、赤坂憲夫氏の東北学などの文献からのインスピレーションである。

日本が多民族国家であり、異なる価値観や文化、習慣(場合によっては言語ですら)を持っていることは明白として、大和民族以外の存在はどこに行けば実感できるのだろう。東京ならば、新宿や大久保に行けば、韓国系日本人に会える。横浜の中華街に行けば、中国系日本人ばかりである。そろそろ、インド系日本人の多く集まる場所もできそうだ。

では、彼らの来る前の江戸時代以前は、日本は単一民族の地であったのだろうか。それも明確に『NO!』である。アイヌがいたことは明白だが、それ以外の民族が、大和民族の中に溶け込んで、あるいは、大和民族のようなふりをして、あるいは、そんな『民族』などという、生きていくうえで無意味な概念などを無視して、複数の民族が存在していた、と思う。

宮城県多賀城市は、私のかみさんの実家があり、宮城野の沃野の東端にある。7世紀の終わりから8世紀にかけて、大和民族は宮城野の沃野に目をつけ、田んぼを作ってきた。蝦夷(えみし)と大和民族が呼んだ民族が関東から北の大地に住んでいたが、大和民族は徐々に田んぼを北へ増やしていった。

蝦夷という呼び名は大和民族が付けた名前で、文字を持たなかった民族は自分たちをどう呼ぶか記録に残す術がなかった。たぶん、他民族を呼称するなどという、無意味な考えさえ、なかったのかもしれない。エスキモーたちが自分たちの呼称がなかったので、ヨーロッパ人が来たときに、『生肉をく食うひと』という意味のエスキモーという名を付けたのといっしょだ。

ちなみに、肉を焼いたり煮たりするような野蛮な民族は、北アメリカの北部に住んでいた人たちは見下していたはずで、エスキモーとは栄誉ある、人間らしい呼称なのである。そう、日本人も欧米人も野蛮人なのだね。

さて、多賀の柵が出来て、大和民族により多賀の柵以南では稲作が行われた。8世紀になると、多賀の柵は西の大宰府と同様に重要な地となった。多賀に城を作り(城といっても、大和朝廷の建物である)、朝廷から人を派遣し、奥の地を管理した。

大和朝廷に欠かせないものは神殿である。神様の家を作ることが重要だったため、塩竈神社を建立した。塩竈神社は、神様の居場所であると同時に、大和から来る上級の官僚の迎賓館の役割を果たした。

高級官僚は、陸路ではなく、途中から船に乗り、塩釜港の国府津(現在は香津と呼ばれる)の泊で船を降り、塩竈神社で旅の埃を落としてから、多賀城の朝廷に向かったのである。

さて、現在の多賀城市は、仙台の惑星都市(うーむ、都市としては田舎っぽいが)として機能し、しかもSONY やキリンの工場があり、なおかつ、8世紀からの伝統なのか、陸上自衛隊の駐屯地がある。きわめて普通の、地方の市である。

8世紀、坂上田村麻呂が『征夷大将軍(つまり蝦夷を征服する大将軍)』に任命され、多賀城
赴任した。大和民族の特徴は、蝦夷を皆殺しにするのではなく、蝦夷の人間を朝廷の官史として雇ったことだ。アテルイという蝦夷の長は、大和まで連れて行かれ、坂上は助命嘆願したが、最後には大和朝廷に殺された。 

無論、蝦夷は怒ったし、多賀城は何回か攻撃を受け焼かれている。しかし、大和朝廷は、多賀城を何回か復興させ、駐屯した。城の外には街を作り、人を住ませ、大和民族と蝦夷は混ざり合った。

現在、誰が大和民族で誰が蝦夷か、区別はつきにくい。しかし、混ざり合ったにせよ、蝦夷の子孫である東北人の思いは、1,200年変わらない、と思う。東北人と大和人は、考え方や文化が明白に異なる。明治以来、東北は遅れていると宣言され、自分たちもそう思い、努力し、勉強してきた。結局のところ、現在の日本の経済を支える製造業は多くを東北に依存している。

歴史的な重要性から、多賀城址はきちんと保たれている。多賀城址から南側を眺めるとなんと宮城野は沃野なのか、が十分に見て取れる。農林水産省の失政で、この沃野全体が田んぼにはなっておらず、仕方がないので、高いビルやマンションが乱立していて、言いようもない悲しさを覚える。

そして、蝦夷たちの意志を継ぐように、この多賀城址は派手な観光スポットにすらなっておらず、人ひとりおらず、閑散としている。みやげ物やも何もなく、芭蕉が感動して涙を流した『多賀城碑(壷の碑)』ですら、野末にぽつんと置かれたままである。

蝦夷の大和民族に対する最後の抵抗であろうか。

多賀城市観光協会のホームページ

 

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