日本の全自動犬洗い機とアメリカの野犬が怖すぎる件
全自動犬洗い機なるもの存在に驚いたのですが、それに対して海外ユーザから好意的なコメントがありつつも、”否定的なコメントも多数見受けられた”とネタりかでは伝えています。
インタビューに答えている女性は「おうちで洗うのが困難なわんちゃんや…」という事で用途解説してくれているのですが、この手の話しを聞くとやはり気軽に飼いはじめたのはいいけれど結局続かず…というパターンがどうしても思い浮かんでしまいます。
私が言うまでもなく、日本で年間30万頭の犬や猫が殺処分されているというのは人間の身勝手という事を含め、何かしら改善出来ないものか…と誰もが思うところと思います。
飼い主の無責任さとは別で、野犬化してしまったペットを捕獲したりする現場では相手は動物で抵抗もしますからやはりそこには可哀想だけはなく危険が伴います。
小さい動物であっても引っ掻かれたり、噛み付かれてどういうばい菌を持っているか分かりませんし、大型犬が本気で抵抗したらかなり危険な現場になってしまうはず。
冒頭紹介した全自動犬洗い機の映像をYoutubeで見ていたら関連動画としてサムネイルではとっても可愛い顔した寝顔していたこのわんこ、実は大変凶暴な奴のようです(苦笑)
ニュースでは噛み付かれて剥ぎ落ちたパトカーのバンパー写真が登場していますが、これまた関連映像をチェックしていくとパトカーの車載カメラの映像もアップされているようでその現場がいかに危険極まりないものだったのかが一目瞭然だったりします。
可愛い動物を救おうという話しと、何かしらの事情で凶暴な野犬と化した動物についてはその処分に異論を唱える人は少ないだろう…と色々なケースを考えてみたり、ペット産業が高齢化社会、無縁社会と言われる今の情況からどんどん拡大する可能性を秘めているというのがこれまた話しを難しくします。
ここ最近NHKでの無縁社会に関する番組放映から、80代、90代になってからやる事みたいな話しの見出しを見かけることが格段に増えたと思います。
結局最後は一人なんだ…という話しではあるのですけど、社会に生を受けて、どうその寿命を全うするのか…という観点で、社会的に必要ないから処分されてもしょうがない的なペットへの処置は、多分定年などで人生を改めて考える時間が増えた団塊世代にとって非常にグサっと来る話なんだと思います。
自分自身、極論すれば会社に属さないということはいわばその日暮らしと一緒で、技術革新の影響で下手すると2~3年先には食べていくのも困難という状況に追い込まれる可能性はゼロではない…独立・起業していくというのはそういう覚悟が必要だったりする訳です。
動物のように自分で主張は出来ない辛さもありつつ、人間もまた高度に機械化、効率化さえた社会の中で、自分の主義・主張とは関係なく、そこから脱落、排除される可能性があり、そこで弱者が声をあげても社会的な取り組みが行われるまでには、大変な時間と手間が必要になるはず。
ここ最近、1902年当時のロンドンのイーストエンドの貧民街に潜入したルポルタージュ「どん底の人びと ロンドン1902」という本を読んでいて、100年前から「果たして文明は人間の生活を向上させたか?」とか「平均的な人間の幸せに役立つように文明を働かせる」事ができるか?という指摘がなされている事を知ってかなり憂鬱な気分になってしまいました。
生まれながらにして一生食べていくことの心配をしなくて良い人、いつも自分の存在価値が失われないかを心配していないといけない人、そういう心配をしておく必要があるのに気が付いていない人…
多分日本がこの5年とか10年で急に没落することはないでしょうから、あまり極端な危機意識を煽るのも考え物ですが、昭和30年代あたり男性の平均寿命が65歳くらいだったことを考えると、仕事をしているうちは社会との関わり方でアイデンティティ保てるという事だけでなく、高齢化社会で仕事を持たない状態で社会とどう関わりを持てるのかが大変重要になってくるはずで、この観点で「自分」という「存在」が「ぞんざい」に扱われるかもしれない…という恐怖感が「無縁社会」というキーワードに大きく反応しているのかもしれません。
ここ最近、ベーシックインカムネタに触れる事が減っていましたが、「どん底の人びと ロンドン1902」を読んでまたいろいろ思うところがあるので、何とか近いうちにエントリアップしたいと思います。