読書の秋?新渡戸稲造から、ベーシック・インカム、そしてジョージソロスまで(苦笑)5/5
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かなりはしょってしまいますが、ジョージソロスは金融システムが何らかの危機に瀕した場合、当局は救済しないわけにはいかないことを認めなくては駄目で、これはそこに関係する金融機関は、好き嫌いは別として常に当局に守られている存在だという事を受け入れなければならない。そして守られている以上、その対価もきちんと支払いべきと唱えています。
そして、普遍的なモデルが成り立たない以上、金融世界においても当局が放任せず、新しい金融商品・手法をしっかり理解・把握する事が必要で、自分達が理解できない商品・制度は許可すべきではないという彼なりの考えを展開しています。
最後にかなり無理やりですけれど、ベーシック・インカムに話題を戻すと、市場原理主義、グローバリズムが無制限に拡大して、最終的にそのシステムを牛耳っている国、企業、ほんの一部の人々がある意味過度に潤い、それ以外の大多数が疲弊してしまう社会への懸念として、ベーシック・インカムのような制度について議論される機会は日本でも増えてくるのでは?と考えます。
ですが、このベーシック・インカムもニュートン物理学のような普遍的に成り立つ理論(社会)体系として考えることは危険であり、人間の「可謬性」を踏まえつつ、狩猟生活から、農耕生活が生まれ、地主・小作農の時代から、近代化・工業化の流れの中で見た場合、民主化と個人所有という概念が定着してからの歴史ってそれほど長くないような気がするので、これも一つの進歩の過程として捉えるべきものなのかもしれませんね。
ゲッツ・W・ヴエルナー、新渡戸稲造、ジョージ・ソロス、、、個々人の考えには当然違いがあるわけですが、それぞれの経験値として基本的な学校教育が当然ベースとしてあり、哲学、宗教的な観点や、そこに世界史を踏まえた、国家や個人がどのように進歩していくべきか、、、という考え方が明確に記されています。
つい最近も日本では政府見解逸脱で揉めていた訳ですが、文部科学省と日教組の問題とかで大臣発言を巡って辞任騒ぎがあったりして、こんだけ世界の中で仕事しなくてはいけない時代に、世界の中の日本として、その歩んできた歴史であったり、国家としての指針が示せない、教育できない国ってほんと大丈夫なんだろうか、、、というのが今年の読書の秋の感想でした。
今回は触れられなかったのですが折を見て、「大学「法人化」以後」って本もいろいろ参考になったので、どっかで触れていきたいと思います。
おわり