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読書の秋?新渡戸稲造から、ベーシック・インカム、そしてジョージソロスまで(苦笑)2/5

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新渡戸稲造の自警に書かれている「戦場における日露両国兵の比較」にはこんな一文があり、

「ロシア人は死ぬも居切るも神の力によるものであり、働くのも働かないのも神のためであると、考えていたらしい。だから卑怯者をたくさんいたが、何ごとでも命令を受けると、人がいてもなくても、神のためと思ってその任務を果たすことに勤めた。ところが日本兵はおだてなければ動かない。決死隊というものでも、彼らが花のごとく散る姿を目撃する誰かがいなければ、特に将校が現場にいる場合でなければ、士気ははなはだ振るわなかった」

高田理恵子:学歴・階級・軍隊では、第2次世界大戦の開戦当時にゲーテやニーチェ、ヘルダーソンなど、第一義的な文学書が盛んに売れた事象を紹介していたりします。

新渡戸稲造に戻って、日本人に対する外国人の印象として

「このような感情に支配されやすい国民は立憲政治を実行できるだろうか」

という所見がその当時からあったことが紹介されており、

学者は社会の進歩の秩序として、団体概念から個人関係に移っていくと説く人もいるが、ヨーロッパの進歩は果たしてそういう形跡を表している。

日本の歴史も果たして西洋史の形跡と同じようなものを著しているのならば、我々も近ごろいう「国家、国家」という声が今後いくらか弱まりはしないかと心配に思っている。

そして、同時にそれが健全な個人的思想に伸びていったならば、国家という言葉を公言することは少なくなっても、実際においてはその力が強くなるであろうと信ずるのである。

と、新渡戸稲造の考えが書かれていますが、今回紹介した各書籍においては、日本における戦前エリート教育、戦後の平等主義教育どちらにおいても、結果として現在のグローバル経済やフラット化した世界で活躍できる人材を排出するための教育や、そういった枠組みの中で個人がいかに社会と関わっていくのか?という教育は全然できていないのではないでしょうか?

3ページに続く


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