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新ニッポン人に自動車を買って欲しいなら旧ニッポン人はまず自分達の価値観がどうやって形成されたか振り返るべきだと思う

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先日、テレビ東京系で久米宏氏司会の経済特別番組「久米宏 経済スペシャル 新ニッポン人現わる!」が放送されていました。この番組のことは、放送日の翌日、早速小林さんが書かれてらっしゃいました。

自分の場合、番組の前段部分の”自動車を買わない新ニッポン人”のところが終わって次の”居酒屋でお酒を飲まない新ニッポン人”あたりでお風呂に入ってしまったので全部を見ていた訳ではありません。でも、きっと”旧ニッポン人”に属される自分が見ても違和感を感じたので、もし”新ニッポン人”に属される人が見れば、「何を言っているんだろう」、「だからどうしたの?」という感じだったのでは無いでしょうか。

自分がそう感じたのは、番組のテーマはその番組公式ホームページにも記載されているとおり「新ニッポン人=お金を使わない20代の若者」とのことでしたが、実際には「新ニッポン人=旧ニッポン人が価値を感じるものに対してお金を使わない20代の若者」というところで全てまとめられていたからです。

また、新ニッポン人に対して、旧ニッポン人が価値を感じるものに価値を感じて欲しい、いや、感じるべきだ、的な主張が展開される一方で、いわゆる旧ニッポン人が価値を感じるものを提供している会社の方向性を決めるポジションに恐らくたくさん居ると思われる旧ニッポン人達に対しては、「新ニッポン人を攻めて行くならこういった考え方を踏まえておく必要がある」という啓蒙を促すものでは無かったからです。
(周りくどい表現ですみません)。

自分が決して”平均的な旧ニッポン人”だとは思えないのですが、”新ニッポン人が何故自動車を買わないのか?”ではなく、”旧ニッポン人が何故自動車を買っていたのか?”を自分の例を出して私的考察をしてみたい、と思います。

結論から先に言えば、一番大きな理由としては「人とつながるのに、数少ない選択肢の中で、一番便利だったのが自動車を持つこと」だった、と思います。

インターネットなんて存在は身近な生活にありませんから、(余程、雑誌の募集欄とかで文通をしようか、とでもしない限り)普段から付き合いのある人達の中だけで暮らすことになります。その人達と比較的自由に、またあまり関係の無い人に邪魔をされず、楽しめる空間の一つが自動車の車内でした。移動先に行く道中の時間・体験の共有も仲間意識を強めるのには有効でした。また、何かの情報を得たい、と思った場合には、自分自身が移動して実体験する必要がありました。メディア以外の情報などというものは一般人にとって受け取る機会は皆無に等しく、また一般人自身も気楽に情報を発信できる場もありませんでした。情報取得をしたい、と考えて、移動する機会を増やしたい(自分みたいな人にとっては)なおのこと自動車は便利なツールだった、と思います。

携帯電話なんて存在も身近な生活にありませんから、どこかで待ち合わせでもしようものなら、厳密に、用意周到に時間や場所を交わしておかないとなかなか会うこともままなりません。何かの事情で遅れたりしたら大変です。何故遅れたかの理由を伝えることができません。電車の遅れ、とかなら駅のアナウンス等から何となく類推することができます。本人の寝坊による遅刻等なら悲惨です。待っている側からすれば”怒る”というより、何か事故に巻き込まれてしまったのでは無いか?、とか、自分が交わした約束が誤っているのでは無いか?、とか、自分は裏切られてしまったのでは無いか?、などという余計な想像が頭をよぎります。それの解消に自動車が直接寄与する訳ではありませんが、極端に言えば、待ち合わせ場所を待ち合わせする相手のできるだけ移動距離の少ない所にすることによって、前述の余計な想像が成り立ちにくい状況にすることが可能になります。

当時、それこそ”旧ニッポン人”界(?)においては、20歳前後になってくると車を持つことが当たり前のような一部風潮がある中で、その風潮の中にも細かく言えば持とうとする車のジャンルに、国産高級車や外車>高級車とまでは言えないが格好良い車>とにかく車であれば何でも良い>車が無い、という序列がありました。そんな風潮を全く気にしない層以外、つまりとにかく車は持っていて当たり前だ層のボリュームが大きく、またいずれかの序列に入っていこうとする動きがあった、と思います。
例えば、自らのバイト代だけでは”とにかく車であれば何でも良い”層にしか入ることができない(=そのような車しか所有できない)ので、親からせっかくもらった仕送りを削り、”高級車とまでは言えないが格好良い車”の層に入るべく(?)トヨタのAE92レビン/トレノや、日産のS13シルビアを購入した連中が自分の周りには居ました。補足して言えば、その車両購入群にも”どのグレードを買えたか?”ということで細かい序列ができていましたが(苦笑)。
母数は違えど、前述のような序列の考え方は男女にあまり差はなく、ただ女性においては”自分自身が所有する側”をイメージするか、”自分が乗せてもらう側”をイメージするか、その人それぞれで違っていただけに思います。
全員が全員と、と言い切れるような統計情報は持っていませんが、何となく、それぞれ”所有する車のイメージ”層が異なるもの同士が普段一緒に遊んだりするようなことはなかったように思います。それはお互いがお互いを相容れようとしなかった、というよりは、”見栄”、”どんなものが好き”といった「何にお金をかけることができるか?」という価値観が共有できる仲間同士が集まっていた結果、とも言える、と思っています。お互いが目に見えて判断できるアイテムとして、ファッション、時計、自動車ぐらいしか無かった訳ですから。

注:正確には集団形成において、趣味やバイト、習い事等でのつながりもありますが、これらは「何にお金をかけることができるか?」軸とはまた違った軸のように自分は考えています。

かなり極端な例で書いてしまいました。自分の体験例は関西のとある地域のことです。全国的にそうだったはず、と言い切れる証拠はどこにもありません。でもあながち外れてはいないのでは無いでしょうか?何故なら、その後数年経ち、居住ロケーションを色々変えた中、同世代の人と話していても概ね「同じような感じ」の印象を受けるからです。

今はどうでしょうか。インターネットには情報があふれています。誰か一人ぐらいの情報だけではなく、同じテーマや同じ場所、時間や出来事に対して、色んな側面から正誤様々な情報が発信されています。また、距離的に身近な人以外にもたくさんのつながりを持つことができます。場合によってはお互いの本名を知らないまま長い間付き合い続けていることもあるでしょう。
携帯電話、という(基本的には)いつでもどんな場合でも好きな時につながりを持てる道具もあります。維持費の高い自動車を持つことよりも、新たな機能や新たな色のケータイを持ったり、みんなが知らない、わかっていない使い方を教えてあげる方が”先進性がある”ということで自慢できるかもしれません。
昔で言う”おやじが飲んだくれている”おかみさんの居るような場所ではなく、遅くまで、場合によっては朝まで、リーズナブルな値段で過ごせる場所として多くのチェーン展開居酒屋があります。少人数でも借りることができる個室があったりします。お酒を飲む・飲まないに関わらず仲間うちの話で盛り上がることができます。お店によってはドリンクバーまであります。さらにお店によっては深夜割増を取られることもありません。ファミレスのように人の出入りが気になることもなく騒げる場所は居酒屋以外にもいくらでもあります。逆に一人で過ごしたい場合はマンガ喫茶でもいいでしょう。これまたお店によっては深夜はカプセルホテルの1/3ぐらいの値段で十分寝られるのに耐えられるシートがあったりしますし、一人何かに没頭するのもいいかもしれません。

これらは少なくとも”旧ニッポン人”が”新ニッポン人”と言われる人達の世代だった頃に無かったものです。そういう意味では自分が思うに、自動車という存在の絶対価値が劣った、というよりも、”新ニッポン人”にとっては自分達の価値観において様々な選択肢がある中で、自動車という存在の相対価値が劣った、ということなのだと思います。自分が書くまでもなく同じように考えられている人は多いことでしょう。それでも、今回の番組のように価値判断をする側があたかも価値の判断仕方を誤っているように展開したり、いわゆる旧ニッポン人が価値を感じるものを提供している会社の方向性を決めるポジションに恐らくたくさん居ると思われる旧ニッポン人達が、群を抜いて絶対価値を高めるか、これからまだ見ぬ競合が出てくる可能性がある中で相対価値を高めなくてはいけないということを、”業界として”どうすれば良いかを真剣に論じようとする姿勢が感じられなかったりすることも事実だと思います。

ちなみに、実際の販売の現場では(お客様の面前に立っているので)こういった事情をリアルに理解されているように思います。ところが(ブランドや商品戦略も含めて)全体をマネジメントすべきメーカー側の一部では正しく認識できていない・・・というか認識しようという姿勢に立っているようには思えない、むしろ立とうとしないところもあるように思えます、客観的に見て。

では自分ならどうするか?言いっ放しでは無責任ですからね。(あくまで個人的な案ですが)いくかのネタは考えています。非常に残念ながら組織の役責上会社では披露する場は無いのですが(苦笑)。その代わり、と言ってはなんですが、オルタナでまたの機会にご紹介させていただきたい、と思います。今回のエントリーでは触れません。何故なら、文章が長くなり過ぎました(笑)。また、思い入れが強過ぎるテーマのため、(こんな駄文でさえも)ここに来るまでに何度も書き直してしまいました。これ以上を語ろうとすると、より一層自分の実力では背負いきれなくなりますので、今回はこの辺でお開きにさせていただきます。

※1:自分の場合、他に車を所有せざるを得なかった理由として、趣味でやっているバンドにおいてパートが「キーボーディスト」のため、器材を運ぶのに公共交通機関では難しかった、というのもありました。「ボーカリスト」だったら、趣味的理由においては車を持つ必要が無かった、と思います。

※2:以前、テクネコ加藤さんの「自家用車をやめてみました」に反応する形で自分が書いた、「自家用車を持たなくて済む地域と済まない地域」で触れた内容のように、実際には、車の絶対価値というのは、その利用される地域によって変わります。また、相対価値が下がるか上がるかは、またその利用する人が日常生活する地域における、本人にとっての”費用対効果”を測るための選択肢がどれだけ兼ね備わっているかによっても変わります。したがって、自動車という工業製品のあり方および販売戦略のあり方は、電化製品とは異なり、またどちらかというと食品に近く、もっとその利用地域を意識したものになっているべきだ、と思っています。

※3:前述の20歳前後の層別において、自分が属していたのは、「とにかく車であれば何でも良い」でした。その後新車を買ったりしたこともありましたが、未だに車両本体で140万円以上する車両購入をしたことがありません。ある意味”新ニッポン人”と同様、自分にとっての”費用対効果”を考慮していると思います。

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