現場は見ろ!では実は意味が無い
「事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!」
は、かの有名な「踊る大捜査線」にて織田裕二さん扮する青島刑事が会議室に閉じこもった上層部に向けて言ったセリフですが、事件、というか事象が起きるのはドラマの世界だけではなく、それぞれ、どんなビジネスにおいても現場であることは紛れもない事実であることに誰も異論は無いでしょう。
さて、一方、よく聞く話で、
「お前、ちゃんと現場を見て来たのか?」
また、一方で、
「ちゃんと自分は現場を見てきました」
というのもある。
現場を見ることは非常に大切。でも自分の持論は、現場をただ見るだけでは何も意味が無いと思っている。現場を見た結果、
・何を感じ、
・自分の考えていたことと差異があったのか無かったのかを確認し、
・良いように差異があった場合、それを次にどう生かしていくのか、
・悪いように差異があった場合、次にどういうアクションを取るべきなのかを考え、もしくは取っていくのか、
が無ければ現場にはただ行っただけになってしまう。
そんなの、当たり前ですよね。逆に現場に直面している人からすると、自分が直面している状況を解決してくれそうな、もしくは解決してくれる立場にある人なら見てもらう意味があるけれども、そうじゃ無ければ「お前何しに来たんや?」って感じになりますよね?
自分の知り得る範囲だけの話かもしれませんが、残念ながら、「現場を見る」がスローガン化、もしくは、その言葉の根底にあったはずの感じること、具体的に行動すること、ということなく言葉どおり現場を見て終わり、というケースを聞いたりします。ただ、これには二つの理由があるようです。そもそも自分の仕事が細分化され過ぎてしまい、問題を解決する行動を起こそうとしても結果としてつながらないうちに萎えてしまう場合、もう一つはそもそも現場で”感じる”という感受性を鍛えられていないまま現場に行けと言われるままに行き感じることができない、という場合と。
前述の青島刑事のセリフにしても、その現場に直面して、具体的にどう動きたいか?がイメージできていたからすぐその判断が出せないことにイライラして吐いた訳で・・・まぁこれはドラマ上の話ですが。
こう書いている自分も所詮歯車の一部ですが、現場に行った時、きちんと感じることのできる感受性はいつまでも持ち続けて居られるよう自分なりの努力を続けていきたいと思っています。