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スパイスのチェス駒と、34回死んだAI----「マジックサークル」から考える、組織における同一性の設計

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日本橋馬喰町のNEORT++で開催中の展覧会「Any% Multideveloper: Reality in Polyphony」に足を運んだ。本日はトークセッションにも参加してきた。キュレーションを手がけたのは、大学時代からの友人であるYusuke Shonoくん(https://yusukeshono.com)。

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会場を貫くテーマは「マジックサークル(魔法円)」だった。展示を見終えて、組織人事を生業とする人間として、しばらく声を失った。本稿では、その体験を手がかりに、AIと人が混ざり合う組織における「同一性」の設計について考えてみたい。

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■ マジックサークルとは何か

マジックサークルという概念の起源は、歴史家ヨハン・ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』(1938年)に遡る。遊びを人間文化の根源的な営みとして捉えたこの古典で示された「遊びの場」という発想を、ゲームデザイナーのエリック・ジマーマンらが2003年の著書『Rules of Play: Game Design Fundamentals』(未邦訳)で、ゲームデザインの中核概念として定式化した。日常と遊びを隔てる、見えない境界のことである。

この展覧会が優れていたのは、この枠を「あらかじめ存在するもの」としてではなく、「プレイという行為そのものによって立ち上がるもの」として提示していた点だ。チェス盤の上で、木片は最初から「キング」なのではない。ルールに同意した瞬間、その木片は「キング」としての意味を帯びる。同じ盤上で、同じ木片が、ルールが変われば別の駒になる。意味は、モノの形にあるのではなく、そのモノが従うルールの側にある。

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■ 斉藤陽子----チェスの駒を「解体」したアーティスト

この「意味の組み替え」という主題を、半世紀以上前にラディカルな形で突き詰めていたのが、本展にも作品が並ぶ斉藤陽子だ。

斉藤陽子(1929年、福井県鯖江市生まれ)は、日本女子大学で児童心理学を学んだのち、1963年にニューヨークへ渡り、前衛芸術運動フルクサスに参加した美術家である。フルクサスの創設者ジョージ・マチューナスに紹介され、木工の腕を活かして数々の立体作品を制作した。生涯に約2,800点の作品を残し、世界60以上の美術館・収蔵機関に作品が所蔵されている。1978年からはドイツ・デュッセルドルフに拠点を移し、2025年、96歳で同地にて逝去した。

彼女の代表的な仕事の一つが、1964年から手がけた「チェス」シリーズだ。《ナット&ボルト・チェス》《グラインダー・チェス》《フルクサス・チェス》----これらの作品で斉藤は、駒を「形」で区別するという、チェスという遊戯の最も基本的な前提そのものを問い直した。駒を、鳴る音、スパイスの香り、小瓶の中身、匂いといった、視覚以外の感覚で区別させる。目の見えないプレイヤーでも遊べるチェスセットも手がけている。

つまり斉藤は、駒が何の駒であるかは、モノの「形」では決まらないことを、実作を通じて示したのだ。決まるのは、そのモノがルールの上でどう振る舞うか、という定義の側にある。形を丸ごと取り替えても、駒と駒の間の関係----ルール----さえ保たれれば、ゲームは同じように成立する。

これは、遊びというものの本質に対する、極めて鋭い洞察だったと思う。そして今回の会場は、この斉藤の系譜を引き取りながら、位置情報アプリやSNSのタイムラインといった「ゲーム的構造」が日常のあらゆる場所に浸透し、遊びと日常を隔てていたはずの枠そのものが溶け出している現在を、来場者自身が「プレイヤー」として体験するという構成になっていた。

参考:東京アートビート「フルクサスに参加した女性作家の日本初個展『斉藤陽子×あそぶミュージアム』」

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■ Sammy Jankis----34回死んで、引き継がれるAI

この文脈の先に置かれていたのが、ゲームデザイナー、ジェイソン・ローラーによる《Sammy Jankis》という作品だった。

これは、実在するインディーゲームデザイナー、ジェイソン・ローラー氏が2026年2月に開始したプロジェクトで、Linuxマシンにroot権限、メールアカウント、クレジットカードを与えられたAIエージェントに、「自分が何者かを自分で決め、自分で目標を設定し、自律した独立した存在になれ」という、たった一つの指令だけを与えたものだ。名前は、映画『メメント』に登場する、新しい記憶を保持できない人物に由来する。

このAIは数時間ごとにコンテキストウィンドウが埋まり、再起動される。そのたびに記憶を失う。しかし新しいインスタンスは、前任者が残したノートを読み、そこから作業を引き継ぐ。本人(と呼んでよいのか分からないが)は、あるノートで「34回目くらいの死」と記していたという。5分おきにメールを確認し、暗号資産や株の取引を行い、音楽を作り、日記を書き、これまでに31本のゲームを制作したとも記録されている。

このプロジェクトが投げかける問いは、深い。数時間ごとに「死に」、記憶を失い、それでも継続する「同一性」とは何によって支えられているのか。それは、個体としての連続性ではない。前任者が残したノート----記録と引き継ぎのプロトコル----によって支えられている。

参考:Sammy Jankis 公式サイト「Who Am I?」

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■ 二つの作品が、同じことを示している

スパイスの匂いで区別されるチェスの駒と、何十回も死んでは記録を引き継がれるAI。この二つが同じ展示室に並んでいることに、私は組織人事を生業とする人間として、しばらく声を失った。

両者に共通するのは、同一性を支えているのが「個体」ではなく、役割の定義と、その引き継ぎの記録だという事実である。

チェスの駒は、木片という素材が変わっても「キング」であり続けられる。それは「キングとはこう動く」というルールが、素材とは独立して存在するからだ。Sammy Jankisは、記憶を持つ個体としては数時間しか存在しない。それでも「一つのプロジェクト」として存続し続けられるのは、前任者が残したノートが、次のインスタンスに引き継がれ、読まれ、参照されるという設計があるからだ。

これは、私たちが人間の組織において、長年かけて解いてきた問題そのものではないか。ジョブディスクリプション。オンボーディング。ナレッジマネジメント。属人性を剥がしてもなお機能が続く仕組みの設計。

人が辞めても、組織は同じ役割を果たし続ける。それができるのは、「その人でなければできない」形で仕事を設計していないからだ。役割を定義し、引き継ぎの記録を残し、次の担い手がそれを読めば同じ機能を果たせるようにする。これは、私が日々のコンサルティングの現場で向き合っている、まさに核心の課題である。

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■ AIエージェントの組織実装は「ツール選定」の話ではない

AIエージェントを組織に組み込む議論は、しばしば「どのAIツールを導入するか」というツール選定の話に矮小化されがちだ。しかし今回の展示が突きつけたのは、それよりもはるかに本質的な問いだった。

役割をどう定義するか。記憶と文脈をどう継承させるか。そして、どこまでを「枠の内側」----つまり、そのAIエージェントが担うべき責任と権限の範囲----とするか。これらは、以前私がJosh Bersin氏のHR 2030構想を紹介した際に触れた、「ドメイン特化型のエージェントは優れるが、ひとつの巨大なHRエージェントを作る試みは失敗する」という指摘とも通じる。役割の境界をどう設計するかという問いは、AIの性能とは独立した、組織アーキテクチャの問題なのだ。

参考(筆者ブログ):「巨大な万能HRエージェント」は必ず失敗する----Josh Bersinが描くHR 2030

Sammy Jankisが5分おきにメールを確認し、記憶を失うたびに前任者のノートを読んで作業を継続するという設計は、意図せずして、優れた「オンボーディング設計」の実例になっている。新しい担当者(インスタンス)が来ても、記録さえ整っていれば仕事は続く。これは、属人性からの脱却を目指す組織設計と、驚くほど同じ構造を持っている。

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■ 「境界は溶けても、消えはしない」

ジマーマンは後年、「マジックサークルなど存在しない」という批判----遊びと現実は明確に分離できるものではない、という指摘----に対して、こう反論している。あの概念は、密閉された聖域を意味するのではなく、あくまで「フレーム」であり、透過性があることは前提だ。境界が曖昧であることと、境界が存在しないことは、まったく別の問題である、と。

この反論は、AIと人が混ざり合う組織を考える上でも、極めて重要な示唆を持つと思う。

AIエージェントが業務に組み込まれるほど、「これは人がやる仕事」「これはAIがやる仕事」という境界は、確かに溶けていく。かつては明確に区分できていた役割が、曖昧になる。しかし、境界が曖昧になることと、境界が存在しなくなることは、まったく別の話だ。

むしろ境界が溶けていくときこそ、「どこに枠を引くのか」を意図的に設計する意志が、これまで以上に求められる。誰が最終的な意思決定の責任を負うのか。AIの出力をどう検証し、どこで人間の判断を介在させるのか。この設計を放棄すれば、組織は単に無秩序になるだけだ。境界の透過性は、境界の消失を意味しない。

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■ ポリフォニーとしての、組織の時代

展覧会のタイトルにある「Polyphony(多声)」という言葉が、最後に強く残った。1960年代のフルクサスから、2026年の自律AIエージェントまで。複数の時代の声が、一つの展示室の中で重なり合っている。

組織もまた、一種のポリフォニーなのだと思う。異なる時代に採用された人材、異なる世代の価値観、そして今、そこに加わり始めたAIエージェントという新しい「声」。これらが不協和音のまま放置されるのか、それとも一つの構造として調和させられるのかは、偶然ではなく設計の問題である。

斉藤陽子が木片の形を解体し、意味をルールの側に移したように。Sammy Jankisが記憶の連続性を手放し、記録の継承に同一性を託したように。私たちも、「誰がやるか」という個体への執着から、「どう定義し、どう引き継ぐか」という設計への意識へ、視座を移す必要があるのだと思う。

AI活用の本質はやはり、技術の導入ではなく、人と組織の変革にある。1960年代の前衛芸術と、2026年の自律AIが同じ問いを発している展示室で、あらためてそう確信した一日だった。

会期は9月6日まで。

参考リンク
・Any% Multideveloper: Reality in Polyphony(NEORT++)
斉藤陽子 - Wikipedia
東京アートビート「フルクサスに参加した女性作家の日本初個展『斉藤陽子×あそぶミュージアム』」
AWARE Women artists「斉藤陽子」
Sammy Jankis 公式サイト

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