大宇宙、この小さな世界
ときどき、考えることがあります。
「地球を含むこの大宇宙は、もしかしたら誰かの箱庭なのかもしれない」って。
比喩ではありません。文字通りの意味です。
たとえば、ですね。あくまでもたとえ話なんですが。
人間の体内にいる様々な細菌に知恵や科学技術があり、人間と同じような活動をしていると仮定します。ええ、突飛な発想だというのはわかっています。あくまでも、たとえ話。
小腸を主な活動領域にしている細菌にとって、自分たちの「領域」は小腸です。いくら大冒険をしたとしても、せいぜい胃や大腸にたどりつのがやっとでしょう。彼らは自分たちが住む小腸のほかに、胃や大腸といった領域があり、そこにもまた自分たちとは違う細菌が住んでいて、それらが「世界」を形作っているということを知るでしょう。
細菌たちの科学技術が発展し、自分たちが行くことのできない場所にも別の世界、例えば心臓や肺といった世界があることを知ります。小腸に住む細菌にとっては、心臓や肺といった世界は、たとえ存在することがわかってもそこに行くことはできません。想像するしかないのです。そう、細菌にとって、人間の身体は「宇宙」そのものなのです。
ただ・・・彼らの科学技術がどこまで発展しても、彼らにとっての「宇宙」は人間の体内であり、それよりも外に別の世界がある、ということは想像することすらできないでしょう(多くの細菌は身体の外からやってくるんだヨ、という突っ込みはしないでね。あくまでもたとえ話なんですから)。「宇宙」である人間の身体という「次元」の外側にまた別の「次元」があるということは、理解することすらできないわけです。
これと同じことが、我々人間にもあてはまるのではないか、と思うことがあります。
人間は科学技術が発展したおかげで、自分たちよりも下位の次元のことはよくわかります。人間は細菌のことが観察できて、よく理解できるのです。でも細菌には自分たちよりも上位の次元のことがわかりません。それと同じように、人間が「これですべてだ」と思っている大宇宙のさらに外側に、もっと上位の次元があって、我々を観察しているかもしれません。それは「神」といわれる存在なのかもしれないし、子供のおもちゃ箱の中かもしれません。
でも、こう考えたら、大宇宙はもしかしたらとってもちっぽけな存在なんだ、という気がしてきます。そのちっぽけな大宇宙の中の、さらにちっぽけな地球という粒の上で、たかだか100年も生きていられない人間は、どんなに小さい存在なのでしょうか。
自分が想像できない世界があります。どんなに考えてもわからない領域があります。でも、それはあってあたりまえ、なのです。そんな世界があるんだ、ということに気づくだけでも、人生はもっと豊かになると思います。