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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

医療従事者の「しごと」について考えてみる。

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父は内科医だったし、昔の病院は家族も病棟や医局に入れたりもしたので、よく職場に遊びに行った。私は医療に無関係な職業に就いているけれど、だから医療の現場については、ちょっと身近に感じている。

そんなわけで、医療従事者の「しごと」について「門外漢」なりに考えてみたいと思う。

以前、このブログでも他のコラムでも書いたが、

「誰かを喜ばすこと」が「しごと」である (これは、元上司の言葉)
「誰かの困った」を「よかった」に変えることが「しごと」である (こっちは、サカタカツミさんの言葉)

という表現は、とてもしっくりくるものがある。



医療従事者は、「誰を喜ばせている」のか。「誰の"困った"を"よかった"に変えている」のか。

先日、キャリアをテーマにしたセミナーを開催したとき、冒頭で参加者に問いかけてみた。参加者の大半は、ITエンジニアだったが、医療従事者には患者として誰もが多少なりとも関わりがあるため、イメージが涌きやすいだろうと思ってのことだ。

「たとえば、医師、看護師は、誰を喜ばせていると思いますか?」
「患者さん!」 
即答である。

「他には?」
「?んん?んん?」

「他にも喜ばせている人、いませんか?」
「家族・・・とか?」
「そう、そうです。患者だけじゃないですよね、喜ばせている相手は」

そうなのだ。

医療従事者が喜ばせているのは、患者本人だけではない。その患者の家族、患者に関わる多くの人にも喜びをもたらしている。

目の前にいる患者だけではなく、逢ったことがない人にまで喜ばせている。
目の前の患者の「困った」を「よかった」に変えているだけではなく、患者に関わる多くの人の「困った」も「よかった」に変えるお手伝いをしているのだ。



以前、母が手術を受けた時のこと。立ち会えるのが私だけだったため、一人で病院に行き、手術の承諾書にサインしたり、しずかな待合室で手術が終わるのを待ったりした時の気持ちを時々思い出す。

母の場合は深刻な状況ではなかったけれど、それでも、手術にはリスクがつきものだから、死は急に目の前に迫ってくる。手術を受けている患者ばかりが集まる待合室は、もっと重篤な状態の家族の手術を祈るようにして待つ人もいて、気持ち悪いくらいの静寂にあった。

手術が終わると院内PHSで呼び出され、執刀医の説明を受ける。図解しながら、何をどうしたのか、今後どうなるのかを説明をしてもらった。

その後、病室に移され、眠り続ける母をベッドの脇でただ見守りながら、意識が戻りますように、術後のケアがうまくいきますように、と祈った。

無事退院し、会社を数日休んで生活のケアをした後、家族それぞれが日常に戻って行った。



患者が治ることで、第一にその患者自身の「生きる」道がまた目の前に伸びていくことになるのだけれど、家族や仲間、友だちにだって、その患者と共に「生きていく」日常を取り戻すことにもつながっている。

医療従事者が助けているのは患者だけではない。医療従事者が喜ばせているのは患者だけではない。
もっと多くの人を、医療従事者が逢うこともないであろうもっと多くの人の「こまった」を、一人の患者の治療の結果「よかった」に変えているのだ。

そのことを意識するだけで、仕事のやりがいや意義は大きく変わってくるのだろうと思う。


医療従事者を例に挙げたが、どの仕事でも同じだ。

私は、「誰を」「どう」喜ばせているのか。
私は、「誰の困った」を「よかった」に変えているのか。

「しごと」の意義や意味が見いだせなくなりそうな時、ほんの3分、立ち止まって考えてみたらよいと思う。





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