起こっている出来事そのものではなく、その出来事に対する解釈で苦しんでしまう
人は、落ち込んだり、悲しんだり、苦しんだり、とネガティブな気持ちになることもたまにあるものだが、そういう時、対象となる「出来事」が問題だと思ってしまいやすい。
たとえば、「上司に説教された」「上司に苦言を呈された」から「落ち込んだ」「ムカついた」(←たとえば、です)「自信喪失した」などとなって、寝る前に思い出し、「ああ、やっぱり駄目だ」とさらに自分のネガティブな気分を自分で強化し、朝起きたら、またすぐ思い出して、「2日目になってもまだ駄目だ、落ち込んだ」とさらに強化していく。
でも、同じように「説教された」としても、翌日にはケロっとしている人がいる。
つまり、出来事そのものが問題なのではなくて、その捉え方によって感情が揺さぶられているのだけれど、そのことを実はなかなか意識することはない。
「上司に説教された」「上司に苦言を呈された」という「出来事」と
「自分はダメだ」「上司にムカついた」「落ち込んだ」などという、自分の「感情」の間には、「自分の捉え方」「自分の解釈」というのが挟まっている。
同じ出来事でも激しく落ち込まない人、それを長く引きづらない人は、「反省して、次に取り返せばいいや」とか「上司は、全人格的に私を否定したわけではなく、あくまでも、ある仕事の一面について苦言を呈しただけである」と捉え、ネガティブな感情をいつまでも頭の中で無限ループに陥らせることがないのだろう。
ABC理論というものがある。
Activating Event → Belief → Consequence
事実 → 信念(捉え方) → 結果
AとCの間のBを変えることによって、Cが変わってくるよね、というものだ。
Bが「不合理な信念」になっていませんか?と問いかけてみるのである。
この考え方に出会ったのは30代になるかならないかという時だったが、知って、とても楽になったことを覚えている。
今でも、「ああ、落ち込んだ」「悲しい」「切ない」とネガティブな気持ちになることはあるが、その時、「それって、ABCで考えたら、不合理な信念を挟んでいるだけだよね、きっと」ともう一人の自分が考えるようにしている。
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話は違うが、DEC時代の同期にとても楽観的な男性がいた。
上司にさんざん叱られて、昔のことだから、大勢が聴いている場所でもあったので、周囲の先輩たちが、
「Kくん、大丈夫かしら? 落ち込んでいるかも。席に戻ってきたら慰めてあげよう」
と相談するくらいだった。
上司に解放され、自席に戻ってきたKくんに、先輩が近づき、「大丈夫? あまり気にしないほうがいいよ」と声を掛けたところ、Kくんは、こう返事した。
「え?今の課長の話って、冗談でしょう?」
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大物だ。
上司の説教(まじ説教)を「冗談で僕に言っているんだ」と思っていたとは。
忘れられない28年前の思い出である。
※「Kくん」って、誰だかわかってしまうなー。関係者には(笑