子どもの「一生懸命」と子どもなりの「切なさ」に心を寄せられる大人でいたいな。
益田ミリさんという同年代の女性作家の本がなんとなく気になり、休日などのんびりしたいとき、たまに読んでいます。
先日はジムで自転車こぎながら、ずーっと『上京十年』というエッセイを読んでいました。どうってことない女性一人暮らし歴10年の中でのあれこれをぶつぶつつぶやいているようなエッセイなのですが、中で、「ああ、わかるなぁ、これ」という一篇がありました。
手元に本がないので、記憶をたどって、雰囲気だけ伝えますね。
「子供の頃、どんぐりを集めた友達が先生にとても褒められていたので、私もほめられたいと思い、どんぐりを集めに集めた。遠足か何かの時、みんなは色んなことをして遊んでいるのに、どんぐりをいかにたくさん集めるか、たくさんたくさん集めたら絶対に先生に褒めてもらえると思い、遊びもせず、一心不乱にどんぐりを集めた。夕方、これ以上ないほど集まったどんぐりを先生に見せた。どんなに喜び、褒めてくれるだろう、とわくわくしていたら、先生の反応は思ったほどではなかった。がっかりして、帰宅し、お母さんにそのどんぐりを見せたら、お母さんは”うわー”と驚いてくれた。それで、このどんぐりのことはずっと忘れないのだと思う」
といった内容でした。
これ、すごく胸の奥がキュンと、鼻の奥がツンとするようなエッセイだなあ、と思ったんです。
子どものすることは、大人から見れば不可解で、時に迷惑なことがあるかも知れない。
たとえば、このどんぐり。「何百ものどんぐりを持ち帰って娘」に対して、お母さんは、「うわー、そんなもの、持って帰ってどうするのよ? 汚いし、食べられるわけでもないし、ゴミが増えるだけじゃないの」 なんて反応する場合もあるかも知れない。
子どもは、「たくさん集めたら、褒めてもらえるかも!」と思い、遊びも我慢して、落ちているどんぐりというどんぐりを拾って、嬉々として帰宅したのに、「うわ、汚い」とか「うわ、なんてことを!」なんて言われたら、しょぼ~ん、としてしまう。
でも、このお母さんは、目を真ん丸にして、うれしそうな顔をし「うわー」と驚いたというのです。これだけで、益田さんは満足できた、と。先生に褒めてもらいたかったけど、帰宅したら、お母さんが笑顔で感嘆してくれたから、ま、いいや、と思えたのですね。
子どものキモチ、オトナから見たら、変な行動に見えることでも、意図があるはず。これを汲み取ってあげられるオトナでありたいと思うけれど、つい、忙しいとか自分基準で子どもに接してしまう、こともあるかも知れない。 だから、相手の意外な行動に即反応する前に、「何をしようとしたのかな?」と理解することは大事なんだと思うのです。(これって、企業のOJTでも同じことが言えるようにも思います)
ところで。
子どものころのことって、案外忘れないもんですよね。
切なかったこと、何とはなしにうれしかったこと。
誰でも胸の中にひとつや二つ抱えているのではないかと思います。
知り合いの女性は、小学生の時、「トッポジージョ」の人形が欲しくて、Xmasだか何かでプレゼントしてもらい、もううれしくてうれしくてうれしくてたまらなくて、学習机のところにずっと飾っておいたのだけれど、そのプラスティックだかセルロイドだかの「トッポジージョ」が机についたライトの熱でくっついてしまい、顔が変なことになってしまって、ものすごくショックだったという話をしてくれました。
大好きで、プレゼントされて、うわーい、と毎日大切にしていたトッポジージョが、よりによって顔の部分が変なことになって・・。かといって、折角プレゼントしてくれたのだから、それを親に言うわけにもいかず、内緒にして。
この時の切なさ。 想像するにあまりあります。
この話、最近聞いたのですけれど、お酒飲みながら、涙こぼして話されるのです。
聞いていて、最初はおかしくて笑い涙を流していたのですが、だんだんとこの時の切ない気持ちに共鳴してしまい、本当に「切ない」涙に変わりました。
何歳になっても忘れられない切ない想い出ってあるものですね。