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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

老いと成長と

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甥っ子2歳半になりまして、言葉が、単体ではなく、文章となりつつあります。それでも、下手な英語を頑張ってしゃべる私のように、途中、意味なく「おー」とか「ああ」とか音を挟んだり、文法めちゃくちゃだったり。言葉を習得する過程って、日本語でも英語でも同じだわ、なんてのんびり観察しています。

「いただきます」は、1カ月くらい前までは「いたみましょ」と言っていたし、「ごちそうさまでした」も「ごっちゃま」だったのに、今では「いただきます」「ごちそうさまでった」と両方ともほぼ完ぺきに(笑)。


そういえば、一人でご飯が食べられるようになりました。左手で器を抑え、麺でもご飯でもスプーンやフォークを使って。時々こぼしていますが、ご愛嬌。

ストローなくても、コップからほとんどこぼさずに液体を飲むこともできるように。

数日前に感動したのは、鏡を見て、自分の鼻の頭が怪我していることに気づき(転んで鼻を派手にすりむいている)、鼻を触りながら、「赤い」と言ったことでした。これ、かなり高度ですよね。

鏡に映っているのが自分だとわかり、しかも、そこに映っている鼻が赤いのに気づき、その赤い鼻が気になって、今度は自分の鼻を触る、って相当高度です。

表情もどんどん豊かになって、喜怒哀楽は、自然にわき出るように学ぶのだなあ、としみじみ思う日々。

ああ、成長し、発達している、と感動しました。

そして、もう一方で、「老い」とまったく逆なのだなあ、と。「子供がどんどん成長していくシーン」は、「人がどんどん老いていくシーン」をまるで逆回ししているようなものなのですねぇ。

10年前におよそ100歳で亡くなった祖母の介護を、亡くなるまでの8年間手伝っていました。主に母と父と、そしてサポートしてくださる方とで見ていたのですが、週末は私や妹も手伝いに行っていました。

2人がかりで入浴させたり、トイレに座らせたり、・・・ 老いが進んで、自分で食べられなくなると離乳食のような食べ物をスプーンで食べさせたり、オムツ取り換えたり。たいていのことはしました。

一人で食べられたご飯は食べられなくなり、こぼさなかったものは口から溢れてこぼれることもあり。
豊かだった表情はどんどん無表情になり、反応も少しずつ薄く薄く、遅くなって・・・。

本当にろうそくの火が消えるように命が少しずつ消えていきました。

人間は、出来なかったことがどんどんできるようになり、いつかそれが「当たり前」でありがたいとも得難い幸せなのだとも意識しなくなり、そして数十年を経て、今度は出来ていたことが徐々にできなくなっていくのですね。

老人介護は、「ああ、これも出来なくなったのか」「そうか、これもうまくやれなくなってしまったか」と、少しずつ「できなくなっていく」ことを数えていくような部分があります。それはとてもさみしいものです。

子育ては、「ああ、これも出来るようになったのか」「そうか、これもうまくやれるようになったのね」と、少しずつ「できるようになった」ことを数え上げていく感じ。明るい未来に向かっていくような。

どちらも「人」の一生の、ある過程。自分が通ってきた道、自分がいつか通る道。


子ども叱るな、来た道じゃ。
年寄り笑うな、行く道じゃ。


どこかの、何かの言葉です。唄かなにか、かな?

【追記:本を紹介しようと思っていたのでした。失礼しました。】

おーなり由子 『だんだんおかあさんになっていく』 PHP研究所

おーなりさんが妊娠している時から、息子さん2歳までの詩集。甥っ子の成長と重ねて読むと、「うん、あった、あった」と微笑ましいものが多かったのですが、母であればもっと実感する詩も多いのでは?と思います。

おっぱいやりながら、自分が

だれかの(たべもの)になるなんて うまれてはじめて!

なんて感動を書いているのです。ステキな詩集でした。

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