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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

Facebookの「友達」申請に思ふ

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Twitterは、自由に(勝手に)フォローしたり、フォローを外したり、見る側が選択できるものですが、Facebookは、「友達」になる、というステップが必要です。(購読という機能も追加されましたが)

「友達」については、「申請」があるとFacebookから「知っている人ですか?大丈夫ですか?」的な確認が表示されますが、それはちと余計なお世話な気もしています(笑)。リアルに知り合いかどうかに関係なく、「友達」になろうと思うケースもあるし、間接的に知っていたり、とりあえず、「あなたのブログや連載は読んでますよ」と言われれば、それなりの”つながり”はあったりするのだから。

人によっては、「申請」には無条件に「承認」している方もおいでですし、「申請」があっても、「リアルな知り合いに限られせていただいています」と断り書きをしている方も見かけます。

それぞれの価値観やFacebookの意味づけによるので、どういうやり方もあり、だと思います。

私はといえば、「リアルな知り合い」+「”あなたをこーゆう理由で知ってますよ”などとメッセージをくださった方」は、「お友達」になるようにしています。全くなんだかわからないケースはとりあえず、「保留」にしておきます。無言で「申請」だけ来て、ぱっと知り合いと思えないケースですね。

「リアル知り合い」以外もどなたかがわかれば、「友達になる」ことにしていると、「リアル知り合い」でなくても、メッセージさえあれば、何も悩むことはないのですが、無言の場合、プロフィールを見に行き、アイコンを拝見し、「知り合いだろうか?」「どこかでお目にかかった方だろうか?」としばらく考えてしまうのです。

「共通の友人」として表示される方たちを見て、「どこに共通点があるのだろう?」「仕事関係でお会いしたことあるのかな?」などと頭の中をぐるぐると。

直接、「知り合いでしょうか?」と尋ねればよいのでしょうが、それもなんですし。

だから、一人悶々と「もし知っている人だったら失礼かな?」とか「私が忘れていたらトンデモない不調法だ」と、悩む羽目に(しかも、数日間も)。

無言での「申請」というのは、実は、相手に余計な思考を巡らせてしまっている、ってことなんじゃないだろうか、と思うのですねぇ。メッセージをつけておきさえすればそれは、費やす必要のない時間。(私は必ず、「こんにちは。ご無沙汰です。田中です・・・云々」といったメッセージを「申請」と同時に送っています。…… それで、却下されたこともありましたが・・・リアル知り合いにw)

これ、何かいい喩えがないかなーと思ったのですが、思いつきませんでした。

いい喩えにはなっていないけれど、似ている状況として、「帰宅したら、玄関先に”柿”がぶら下がっていた。誰かが置いていってくれたものだろうけれど、誰だろう?うちへの贈り物かな?食べて大丈夫かな?」と思い悩む、という感じかな。

メモついていたら、そこまで、ぐるぐる思考しなくていいのだから。

・・・いろんな運用があるのが、ソーシャルのメディアだと思うのですが、私にとっては、「無言」に対して「考え込んでしまう」というのが、目下の悩みです。

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