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40年の結晶、村上春樹『街とその不確かな壁』

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6年ぶりに村上春樹の長編小説を読んで懐かしい感覚がよみがえってきた。やっとふるさとに帰ることができた感じと言えばいいだろうか。

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村上春樹の長編は(たぶん)すべて読んでいるが、短編・中編小説やエッセイは読んでいない作品も多く、決して熱心な読者ではない。それでも、壁、穴、一角獣、影、図書館、井戸、地中の迷路、音楽、二つの世界など、印象的なキーワードやイメージはずっと頭に残っている。また、穏やかで内省的な男の主人公、個性的な女の子、魅力あふれる老人も、親しみのあるキャラクターとして記憶に刻まれている。

新作には、『ねじまき島クロニクル』で出会ったようなショッキングな描写やこれまでとは断絶したイメージはいっさい出てこない。むしろ長年にわたって読者が親しんできたキャラクターが、新しい物語の中で再び息を吹き返して躍動したかのように感じられる。

壁に囲まれた街の図書館で、17歳の主人公は「夢読み」の仕事をしている。古い夢を一つひとつ読んでいく専門的な職業だ。それにたとえて言うなら、この物語の読者も、夢読みとなって、村上春樹が古くから抱き続けてきた夢を静かに読んでいる気分になるのではないか。この物語から想起される懐かしさはここに源泉がある。

あとがきによれば、新作の『街とその不確かな壁』は、作者が31歳の時に発表した未完の中編小説『街と、その不確かな壁』に決着をつけたものだという。前作では書ききれなかった「自分にとってのとても重要な要素」が40年余りの時間を経てようやく物語として完結したと記されている。たしかに、40年の結晶と呼べる作品になったとわたしは思う。

タイトルから読点「、」を取った理由は語られていないが、とても大切なことではないだろうか。読点で区切られていた何かがようやく結びついたという、作者の安堵の表れのように感じられるからだ。

生者と死者、現実と想像、夢と覚醒、日常と非日常、正しさと不正、といった一般的には明確に二分されているものの境界がいかに曖昧で流動的な「不確かな壁」であるか。真実はどちらの世界にも行き来した混ざり合った中にあるということを、わたしは本を読みながら強く感じていた。

このような感覚は、わたしの場合、年齢と関係しているような気もする。高齢になって、親しく交流した人が次々とこの世を去っていき、いまでは死者との対話が日常的になっている。若い頃のそれは本の作者との対話に限られていたのに・・・。また、夢と現実、日常と非日常を区別する必要性をだんだん感じなくなってもいる。

小説の中に「ガルシア=マルケス、生者と死者との分け隔てを必要とはしなかったコロンビアの小説家」という文が出てくるが、まさに村上春樹にとってもそれが実感なのだろう。

この分け隔てを必要としない感覚は、三部構成の物語のなかでも第二部でとくに強く表出される。第一部では17歳だった主人公が、第二部では中年になっていて、「この現実は私のための現実ではない」と感じて会社を辞め、福島県の山の中の小さな図書館の館長に転職する場面から始まる。読んでいて楽しく、とても不思議な展開なのだが、それがきわめて自然に感じられる魅力的な物語になっている。

わたしには、この小説の要約も解釈も難しく、ただ「感じる」ことしかできない。どのように感じたのかを説明するのも簡単ではないのだが、「人間とは運動せる存在である」と記した三木清の初期の論文を読んだ時の印象に近いものがあると気づいた。

19266月に出版された『パスカルにおける人間の研究』は、古い文体で読みづらいうえ内容も難しいので、きちんと理解できたとは言えない。けれども、人間存在の不安定性に注目し、人間の本質を「絶えず途上にある存在」「不安を本質とする存在」である点に見出したことが強く印象に残っている。

『街とその不確かな壁』では、人の「影がある街」と壁に囲まれた「影のない街」の二つの世界が交わり、空間の流動性、不安定性が描かれる。また、主人公は17歳の少年の「ぼく」から中年男性の「私」に変わったり、中年から17歳に戻ったりと、時間も同じリズムで一方向に流れてはいない。空間も時間も交錯する世界で、その両方を行き来する主人公は「絶えず途上にある存在」と感じさせられる。

わたしは、村上春樹が三木清の古い夢を読んでいる姿を想像してみて、ひとりでちょっと楽しんでいる。

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