わかっていない人が何をわかっていないのかを説明するのは難しい
誰であっても一応これは自分の専門分野だと自分で思っている事柄についてはそれなりの見識なり知見なり経験なりがあると思います。そしてそれらの事柄について明らかな事実誤認や誤解に基いた意見を見聞きしたときには色んな事を思うものだと思うんです。それが科学技術的な話であれ、哲学的な話であれ、あるいは日常生活の中の事柄であれ。
もちろんそれが絶対的に正しいと言える種類のモノなのかっていうはそれぞれだとは思いますし、例えば私ごときが知っていることというのは大した事無いんだとは思うんですが、それでも流石にそれってどうよと思うコトが無いかと思うと嘘になる。尤も、そういった事柄について自分の理解とは異なる理解や解釈をしている方本人と直接話をすることはそれほど多くは無いかもしれませんが。
「わかっている人には、わかってない人が何をわかっていないのかよくわからない」
これは昔から良く思うことです。自分よりある事柄を知っている人は当然居るわけで、何かしらの切っ掛けでその人と話をするときにさっぱり話がわからず、良く良く話を進めるとそもそもこちらが何をわかっていないのかという事をあまり考慮していないというケースがまずその1。次は自分が一生懸命説明しているのにさっぱり理解してもらえなくて、良く良く考えたら前提としての知識や経験が無いのでそもそも理解する以前の話だったりするケース。
ところでどんな方でもこれらのどちらも経験することが実は結構あるんじゃないかと思うんです。前者の場合には困った状態が更に混迷を極めたりしますし、後者の場合にはだめだこりゃと肩をすくめて諦めてしまうコトがあるかもしれない。ただ、この二つって結局裏腹の関係で、でもこれを乗り越えないと相互理解を得られない場というのは当然あるし、元々対立関係にあるような状況でお互いの話がかみ合わないと面倒くさい状況がずっと続いたりするのは家庭から社会情勢まで、それこそヤマのようにあるような気がします。
因みに後者に当たるケースとして電車の改札の通り方が解らない!というエントリーを昔書いたコトがあります。そのときのオチが「わかっている人には、わかってない人が何をわかっていないのかよくわからない」という事。これは多分に自戒をこめた話なんですが、そういう状況を別の面からもキチンと理解する必要があるよねというのがあるよねと言うのがですね…
「わかっていない人が何をわかっていないのかを説明するのは難しい」
完全にすれ違いだと、そもそもわかっていない人がなにをわかっていないかが判らないという状況になるんですが、どこかで「あ、ココを判っていないんだ」という事に気がつくコトがあります。これが自分が説明を受ける立場であって、全然相手の説明が理解できていなくて、それに気が付いた自分がその状況を謙虚に受け止めると「そこをチャンと勉強しないとだめだな」という自分の無知を恥じる方向に向かったりするんですが、自分が説明する側で相手が理解していないポイントを判ったとき、それをどう理解してもらうかというのは結構至難の業だったりします。
たとえば状況によっては「そんな事も知らんのか!顔を洗って出直して来いこのボケ!」とか言い放つような場が無くは無いんですが、気の弱い私の場合には大抵何とか相手に理解してもらうように話をし、前提として判っていないと思われる部分を補完し、かつ何について前提として知っておく必要があるかをそれとなく判ってもらうという行動を取る事もあります。
もちろんこれは相手や状況あるいは言い回し次第ではありますが、自分も含めて「お前はココが判っていないんだよ」と言われて気分を害するコトが無いかというとそうでもないのが難しいところ。もちろん私自身頭ごなしにそういう言われ方をして「暗い夜道は気をつけろよこんちくしょー」とか思ったことが無い訳ではないので、そのあたりはどちらの立場にせよ本当に自分として気をつけないといけないなと思う次第です。
もちろんそれぞれの方が色んな意見を持つのは大事なのですが、事実や事象を理解してから意見を言ったり、あるいは人に意見を聞いたほうが良いんじゃないのかなぁと思うコトが無いかと言うと嘘になる。でも世の中の全てを自分が理解できるわけではないし、自分の知らないことを知ってる人・・・というか、自分以外の方は自分の知らない事を知ってる訳で、どこまで謙虚になれるか、あるいは謙虚になる必要があるかというのは中々難しいものです。