書いたものを後から見直すことで見えてくるモノの存在
仕事上の資料なりメールの文面なりを自分で書く行為自体は別に取り立ててどうという話ではありません。因みに例えば何かしらの勉強や会議の際にノートに書き込んだものは(私が思うに)一般的に文章の体をなしていない事が多いんじゃないかと思うので、それは置いといて、何かしら人に読んでもらう、あるいは人に何かを伝えるモノを書く行為があるわけです。
かく言う私のこの一文もとりあえず誰かに何かを伝えたい文章の1つではありますが、それを時々自分で読み返して振り返ってみるとそれを書き記した時点では自分が気が付いていなかった色んなモノが見えてくる事があります。良いモノもあれば、目を覆いたくなるようなものもあるんですけれど。
当然あるのが「あの時、こんな事やってたなぁ」と感慨にふける流れ
これは当然です。これはそれこそ小学校の頃に書いた作文を何十年も経ってから実家で見つけて読み直してみるというのが一番判りやすいかもしれません。ただそんなに古い話じゃなくても、たとえば私の場合過去数年くらいの間に担当した仕事に関係する資料とかにふと目が止まったときなどにも、それと似たようなことを感じる事があります。
過去に自分が書いた何かは当然そのときの状況や役割を反映しているわけで、しかもその後の紆余曲折や阿鼻叫喚の図を一緒に思い出せたりしますので、良い話であれば胸が熱くなり、悪い話だと「ちくしょう!」とか行儀の悪い言葉を吐きながらシュレッダーにぶち込んでやりたくなることもあったりと色々なんですが、それもこれも自分が通った道の記録であるわけです。
因みに私の場合、過去の自分のブログのエントリーやTwitterなどのいわゆるソーシャルな何か系のサービスの中に残っているログも結構そういう思いを深めるネタになります。やたらと情け無い話ばかりが集中した時期があったり、妙に難しい事を言い散らかしていたり、意味不明の単語が並ぶようなときもあったり、あるいは何かしら怒り狂って馬路雑言の限りを尽くしている(とういほど極端じゃないですが)時期もあったりというところから、それなりに色々な感慨にふけることは出来ます。これ、実は嫌いじゃないです。
もちろん自分以外の方の過去の何かしらの発言や書き物に触れることでわかること、思うこともあるわけで
当然ですが世の中には自分の文章だけが残っているわけではなく、自分以外の誰かが以前に書いた資料やら文章やらに触れることで、その人の辿った道というものが見えたりするわけです。これはいわゆる物書きを生業とする方だけではなく、今や誰にでもある話。それこそブログなりなんなりといった電子媒体上での活動の結果も含めての話です。
そうすると当然「ネット上に展開した行動を消す事はできない」という例の話に行き着くわけで、自分が信じる匿名性を担保にした大暴れが思いもしないところで誰かに影響してしまったとか、仮に最初から実名あるいは実名を探索できてしまうような状態で書くならそれなりに気をつけたほうが良いよねと他人ながら心配するような状況とかまで含め、いろんな流れを後からも検証できる状況は既にあるわけです。あるいは面と向かっては言えないことでもネット上などでは幾らでも言ってしまうとか、言ってしまった後で返り討ちにあってしまうとか、そんな状況も日々目にする事ができるわけです。
だからといって、もし何かを書き記すなら書き記す上で妙に萎縮して自分の主張を曲げたりする必要は無いとは思うのですが、例えば私自身はセルフブランディングという言葉の先に見え隠れする微妙な個人の演出の勧めに感じる嫌な感じも含め、普通の社会生活の中で気をつける点はそのまま踏襲し、基本的には素のままでそれなりな行動を取っておいた方が後から自分自身が寂しい思いや恥ずかしい思いをせずに済むよね、と思う程度の人ではあります。もちろん普通って何よという議論はありますが。
そして自分の過去の自分の文章を読み返して誤字脱字を見つけたときの脱力感
色々言い訳することはあります。諸々事情があったりします。それでも過去に自分の書いた文章や作った資料の中の誤字脱字を見つけた時の脱力感はたまらないものがあります。だったら気をつけろよいうのは尤もな話なんですが・・・ いや、もちろん気をつけているんですけれど・・・ねぇ。
すいません すいません