スパムコメント、そしてスパムラベリングが中立性や公正性といった訳のわからない概念を嘲笑っている
みんなで飲食店やら何やらに対するコメントや評価を入れてゆき、他の人にその「有益な」情報を展開しようという系のサービスは幾つかの有名な飲食店を対象としたサービスをはじめ色々とある訳ですが、私自身はそれらのサービスで参照できるコメントについては以前から「誰がどういう背景と意図と状況でいつ入れたのか判らない種類のモノ」と思っています。もちろん何らかの参考になることもあるのは事実ですが、基本的にはそういうサイト自体を殆ど当てにしないというのが基本的なスタンス。
もちろん、こういう種類のモノの受け止め方や使い方は人それぞれですし、ガンガン利用されてる方を批判するとかそういうのは一切無いんですけどね。
コメントされスコアを付けられる側の意思が反映されるほうが良い場合、良くない場合
ユーザー目線、利用者目線というところを意識すると、当然ですがコメントされスコアを付けられる側の意思が入り込まないほうが良いとは思います。逆にそちら側の意思が入るなら、それは単なる宣伝となる訳ですから、それは理解できる。ただ、このモデルには決定的な、ある意味致命的な問題があります。
性善説を大前提としてるわけです。
もちろん評価には良いモノもあれば、悪いモノもあってよいわけです。それは事実。色んなコメントの中に見える評価の傾向やら何やらというのが単なる宣伝ではなくユーザーの声、利用者の声、あるいは客としての声であるという部分の担保能力を持たせるには宣伝は排除するべきであるという基本的な考え方は理解できます。ただし、評価する人が最初から恣意的な何らかの意図を持って行動すれば、その評価の裏書の妥当性が一気に消えます。
モデルが性善説だから、意図的な動きには丸腰であるという事実を忘れるべきじゃない。
もちろん、これは例えばソーシャルな何かの世界や伝統的な「電子掲示板系サービス」などでも普通に見られるものですし、そもそも一般社会の中でも普通に存在するわけです。別にネットの上だけが純粋培養された「良い人」だけがいる世界じゃない。
GoogleがGoogle Placeで踏んだ地雷
たとえばこんな話があります。
↓こちらは続報
何をどういおうと、仕組みが明らかに悪用されているわけです。しかも、悪用するには余りに手軽な「性善説」に基いた仕組みが目の前にあるんですから、ある意味楽勝です。流石に「人を見たら泥棒と思え」的な全方位ハリネズミ防衛思考を持っているわけではないのですが、媒体が紙だろうがネットだろうが何だろうが、中立性や公正性を謳ってるように見えても誰かの何らかの意図が入り込む余地のあるモノに対してはそれなりの姿勢で向き合うべきだと改めて思うわけです。
これは実は別に「場所」や「店舗」に関わる話以外にも「商品」や「サービス」などであっても全て同様なわけで、行動原理的に考えると何と称するかという名札のところだけが多分時代の変遷に合わせて変わって来てる種類のモノです。例えば最近で言えばステルスマーケティングと呼ばれるメソッドは正にその1つな訳ですよね。ということで、大事なのは別にネットだけが安全でもなければネットだけが訳がわからない世界であるという話でもないということを常に理解しておくこと。それだけ。とても簡単な話です。