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無敵ではなかった零戦 (イノベーションの立ち遅れ)

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 無敵ではなかった零戦 (イノベーションの立ち遅れ)

 前回に続き零戦に関してのレポートからイノベーションの重要性を感じた部分の要約です。零戦は全く無敵ではなかったということを書いてみましたが、そこの点をいま少し調べて見ています。
 
・無敵と称される戦果は半年だけ
 
開戦前及び初頭の事例を見ると確かに世界最強と自負したくなるような著しいキルレシオ(被撃墜比率)を記録しています
 
■1941年9月13日13機が重慶上空でソ連製の戦闘機 「ポリカルポフ I-15およびI-16」合わせて27機と遭遇し全機を撃墜破壊し、零戦部隊は未帰還機なしという大勝利を収める
■ 1942年2月13日50機の零戦部隊が100機のP-36、P-40と遭遇し、50機を撃墜し、零戦部隊は3機喪失のみという大勝利を収める
■真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、ハワイやフィリピン上空で合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機すなわち83%を占めた
■1942年6月のミッドウエイ海戦でも空中戦ではF4Fに対して総合で50機以上を撃破。零戦の損害は10機であった
 
主任設計者の堀越二郎は著書『零戦』でその理由として、米英が零戦という技術レベルを把握していなかったこと、ついで人間工学にマッチした操縦応答性を追求した今日でいう「すりあわせ技術」による格闘性能の高さの結果としている
 
・そのような戦果を実現させた零戦の長所としては多くの方が述べておられるが、我々が妥当性を持つとして挙げられるのは主に4点あります(長所)
■  機体が軽く運動性能が高いことから、格闘戦に絶対的に有利 
■  小型エンジンに最適化した軽量設計による高燃費で航続距離が長く、長距離侵攻及び長時間防空任務が可能
■  ベテランパイロットにチューニングした低速での高い操作性と旋回性能
■  広い防風窓の視界性能
 
しかし、兵器の仕様としては軽量と航続距離の長さ以外は特筆すべきことが無く、驚異の戦果はパイロットの運用などのハード以外の要因に求めざるを得ません。
「零戦の強さはパイロットの技量に頼りきったものであった」という評価は否定出来ないものでないでしょうか。
 
 
・深刻な零戦の問題点
 
整理すると、実は零戦では問題点が長所よりはるかに多い。その中には深刻な欠陥とも呼べるレベルのものがあります。    (短所)
■防弾装備が無く、パイロット生存性が極めて低い
 防弾装備が充実している機体では生還できる確率は高く、パイロットの消耗を抑え、技能向上を図る事が出来る。機体の軽量化の為に削られた部分であり、防弾性を上げると重量が嵩み長所が無くなるというトレードオフを持つ。日本軍はソロモン方面の消耗戦で熟練搭乗員を消耗し、練度不足の割合が多くなり、後にマリアナの七面鳥撃ちと呼ばれる決定的な敗北を喫した
■機体構造の脆弱性による急降下速度限界が低い
 格闘戦では無敵だったが急降下速度に問題が有った零戦に対して、上空から高速で降下しながらすれ違う間のみ攻撃し、そのまま急降下で離脱するという「サッチ・ウィーブ」という戦法を編み出し苦戦に陥った。これも軽量化を徹底し過ぎた弊害である。敵機に襲われて逃げる際 敵機よりも遅い降下速度のため回避出来ないという致命的な欠陥といえる
■ 20mm機関銃の弾道特性&装弾数&信頼性 
 時代遅れの照準器と20mm機関銃の弾道特性が悪く、機器の性能により敵機に命中弾を得るのは至難の技でパイロットの高度な技術によった。装弾数も60発であっという間に玉切れになった
 
・戦術的アドバンテージも急降下速度の遅さと熟練パイロットの喪失、加えて連合国側の航空機の性能飛躍によって1年程度しか続かなかったと言われます。当初は10対1や5対1というキルレシオを誇ったが米軍がほぼ無傷の機体を手に入れて研究し、新たな戦法の導入と新鋭機の投入の本格化により、零戦の優位は崩れ、その欠点を克服されることは無かったのです。
一方、零戦は小規模の改良を重ねるのが精一杯で前線で戦い続け、片道2000キロといわれる侵攻作戦などに酷使され、すり潰され続けました。
1944年にもなると、初期の勝利を支えた熟練パイロットもほぼ喪失し、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦では、零戦は悲惨なまでの惨敗を喫しました。マリアナ沖海戦に参加した零戦151機のうち、生き残ったのはわずか17機であった。さらにF6Fの零戦に対するキルレシオは1対19という状況が米軍に報告されている 
 
・歴史を虚心に振り返れば、その兵器としての生涯の大部分は南方作戦やマリアナ海戦に代表されるような戦略の無策と、新たな戦訓を無視した過去の成功体験への固執による、イノベーションのかけらも感じられない消極的選択肢の担い手にされたと思っています。
 
・単体技術としての一時的成功だけを見て、戦略の無策と成功体験への固執によるイノベーションの立ち遅れがもたらした悲劇を忘れてはならないと強く思っています。
 
 
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