少子化問題の背景。忘れ去られていること。~続・ライル島の彼方(n)~
先日テレビを見ていたら、たまたま少子化問題をテーマに、有識者数名が議論していた。
全員、男性。経済的な視点からの議論だった。
生まれてきてほしい理由は、「われわれの将来の生活を支えるために」労働力になり納税すること。それ以外の理由は、蚊帳の外のように見えた。
子を産む、子を産んだ、当事者たちは、何が原因だと考え、どのような対策を望んでいるのだろう?
ジェンダー、医療、環境、教育、食、そして、子をもつ意味まで、独身女性と、子をもつ母たちの、リアルな声を拾い上げることが必要ではないだろうか。
筆者が最大の問題だと考えるのは、環境汚染である。
昭和中期までは、「ハネムーン・ベイビー」という言葉はあっても、「妊活」などという言葉はなかった。20代前半の男女が結婚すれば、自動的に、といっていいほど、複数の子が生まれるのは当たり前、だったのだ。
こればかりは、経済支援では解決しない。というよりも、むしろ、経済最優先、ビジネス一辺倒の価値観が、環境負荷を増大させ、父母となる者の心身に悪影響を及ぼし、少子化を加速させているのではないだろうか。
筆者は還暦を過ぎた年齢であって、昭和の時代からの社会のリアルを見聞きしている。
若い人たちには、知らない情報があるかもしれないから、書き留めてみる。ただし、あくまで筆者が見聞きしてきた情報であって、データの裏付けはない。
昭和の時代のライフスタイルの、すべてが良かったとはおもわない。逆戻りする必要はない。人権を無視した誤った常識は是正されなければならない。
だが、子どもたちが生まれ育つ、住環境、空気、水、土は、現在よりも、安全だった。
経済や制度の問題は、個人で解決することは難しい。だが、環境は、ひとりひとりが生活を見直すことで変えていくことができる。
何が必要か何が不要か、考えてみてほしい。
昭和中期までの、女性のライフスタイルのリアル
適齢期という同調圧力があった。
- 20代半ばの女性に対して、結婚への同調圧力が非常に強かった。
- 女性の求人が限られていた。男女雇用機会均等法もなく、一部の専門職を除き、同一労働低賃金だった。
- 腰かけ就職して数年働いて専業主婦という人生設計が常識とされた。20代女子への常識を強要する同調圧力はすさまじかった。
- 見合いが一般的だった。仲人が強力に婚姻を成立させた。健康状態や家族構成や障がいの有無まで、虚偽の情報を伝えて成立させることがあった。
- 結婚は永久就職と言われ、離婚を考えること自体が忌避された。DVが明らかでも、見て見ぬふりが常態化していた。身体的暴力を伴わないモラハラや経済DVから逃げることは、忍耐不足とされた。つまり、仲人が嘘をついて成立させた婚姻でDVが始まっても、一度結婚してしまえば離婚はほぼ不可能なシステムだった。
性と出産が直結していた。
- スレンダー少女よりも、土偶体形の大人の女性が「安産型」として尊重された。
- バースコントロールの技術が発達していなかった。
- ネットもなく、妊娠出産に関する情報が行きわたっていなかった。バースコントロールの方法を知らない成人も少なくなかった。
- 多産DVが、当たり前にあった。既婚男性には「できたらおろせばいいだけ」という考えの者が少なくなかった。統計はないが、団塊世代以上の男性には、そうした認識を持つ者が少なからずいるように見受けられる。
次世代の生まれ育つ環境が整っていた。
- 生活環境中のプラスチック製品が少なかった。焼却や圧縮に伴う化学物質の発生がなかった。
- 女子の理美容品の利用は、就職後または高校卒業後からとされていた。小中高校生がコスメやヘアカラーやネイルをすることはなかった。つまり、妊娠前女性への内分泌かく乱ホルモンの影響が抑えられていた。
- 医薬品を、必要以上に使う習慣がなかった。サプリは基本的に、肝油程度だった。人体から排出されたそれらの成分が水環境中に放出されて循環することもなかった。
- 日常生活の中に、香水はなかった。香水は、使い方を理解している人が、TPOをわきまえて使うものとされていた。香料アレルギーは一般的ではなかった。
- 香り付け・抗菌・除菌・消臭を目的とする日用品が氾濫しておらず、工業地帯以外では、大気と水の安全は保たれていた。
- アトピー性皮膚炎、花粉症、喘息の患者は少なかった。筆者の経験では、200人に一人の割合。
- 基本的にペスクタリアンで、魚、卵、稀に肉食や乳製品という食生活だった。高齢者に聞いたところ、それが理由で、初潮年齢は遅く、経血量も少なく、(無農薬栽培の)綿花や布で事足りたとのこと。戦中から終戦直後まで栄養不足の時代には、生理を気にする必要さえなかったという。石油製品のナプキンは発売されていなかった。
- 家の周りは、造成土ではなく、豊かな黒土だった。素人でも、食べた後の種を埋めるだけで、無農薬・無肥料栽培が容易だった。食の安全を確保できた。
- 山、海、川、野原の遊びや、家事の手伝いで、子ども時代に、「それぞれの地域の」土壌菌に触れて育つことができた。腸内細菌叢の地域性が維持できた。
- 子どもは社会で育てる、という共通認識があった。住居は基本的に木造平屋の戸建てあるいは長屋であり、縁側でコミュニケーションをとることができた。治安がよく、隣近所の人たちが、「勝手知ったる」で、子育てに参加していた。そのため、育児に適性のない両親のもとに生まれた子には、逃げ場があった。
- 野原や空き地が多く、所有権を主張する人がいなかった。子どもたちは、気兼ねすることなく、大声を出して走り跳ねることができた。
- 車が少なく、交通事故の危険性がほとんどなかった。子どもたちは道路で遊ぶことができた。また、おつかいの道中も危険がなかった。2階以上の住居は少なかった。高所からの転落事故の心配がなかった。
参考情報:環境省 科学的知見の充実及び環境リスク評価の推進 / 化学物質の内分泌かく乱作用に関するホームページ「内分泌かく乱作用とは1
子育ての費用を抑えられた。
- 消費税がなかった。
- 制服、教材、修学旅行、弁当が、華美ではなかった。それらが質素だという理由でのイジメも少なかった。
- 外食は、近所の食堂や、稀のデパートでの食事程度だった。家族旅行も当たり前ではなかった。海外渡航者は、1学年に一人二人で、裕福な家庭の子女だけだった。土産話を聞くことは楽しみとされ、羨む者はいなかった。
- 進学費用を抑えられた。中卒、高卒で就職する学生も多く、受け皿もあった。
- 教育費を抑えられた。習い事や1つ2つまで。塾は大学進学を目指すためのものだった。高校までは、基本的に授業で学ぶことができた。
- 通信費がかからなかった。ネットはなく、携帯デバイスもなかった。固定電話と新聞で、数千円程度。
親きょうだいや親族のケアより、出産育児を優先できた。
- 子が適齢期になれば、結婚させて、新しい所帯を持つもの、という、社会の共通認識があったため、適齢期を過ぎた子の結婚を妨害する親はごく稀だった。結婚次第で、毒親から逃れることができ、出産を優先できた。
- 親きょうだい親族の扶養やケアよりも、結婚が優先された。ヤングケアラーが結婚できないケースは少なかった。
- 平均寿命が短く、それに比して健康寿命は長かった。便利な家電がなかったため、生きていくためには体を動かさざるをえず、ロコモティブ・シンドロームにはなりようがなかった。家回りの自然から五感で得られる情報が多く、、寝たきりになった場合でも、感覚遮断状態にならなかった。医薬品による副作用もなく、つまり、認知症になりにくかった。若年女性がダブルケアに見舞われる状況は、なかったわけではないが、現在よりは少なかった。
子をもつ意義。それは、「変化」を生み出すことではないだろうか、
それ自体、変化するもの。さらにその言動は、変化を起こし続け、情動のエネルギーを喚起する。
「死」とは、変化を失うことだ。
母たちは、変化するものを、創りだしている。