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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

ライターとして、創りたい歌。日本語が滅び、言語が滅びても、ことばを紡ぐ。~ 絵と詩と音楽 (n) ~

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前回までの3回で、ライブ活動から、Cubaseとボカロ を使うにいたった経緯を綴った。
今回は、現在の筆者の音楽制作方法について。

既製品と手作りのバランスは、人それぞれ

ボーカロイドを使ったデジタルミュージックには、三つの方向性がある。

(1)デジタルの可能性の追求。(オリジナル)
速度、音域、声域が、人体では再現不可能な歌。ヒトが演奏できない曲、ボーカロイドの声質。

(2)アナログの演奏の、デジタル化。(カバーまたはアレンジ)
既存楽曲を、DAWやボカロの技術を駆使して、忠実に再現。

(3)アナログの楽曲の、デジタル化。(オリジナル)
デジタル技術を道具として使った、オリジナル曲。基本的に、ヒトが演奏可能。加工した声質。

制作方法も、さまざまだ。
DAWのベンダーが提供するサウンドやループ、メロディやコード進行を集めたコレクションを使用する方法。
それらをベースに、自作した音源を重ねたり、生演奏や生歌を取り込んで合成する方法。
DAWに標準搭載された音源のみ使用する方法。などなど。

これは、音楽に限ったことではない。プログラミング、デザインやイラスト、料理でも、モノづくりなら、同じだ。
どこまで既製品を取り入れるかは、人それぞれ。
既存の品を活用したいひともいれば、手作りにこだわりたいひともいる。

ただ、リスナーからは制作方法を推測できない。
配信サービス会社の対応次第だが、AIを利用した楽曲だった、ということも起こりうる。

ギターもピアノも、演奏できるアレンジで作りたい。

筆者の作る歌は、前述の(3)だ。
インストゥルメンタルでは(1)も試みたいが、歌は、ヒトが演奏できるものを創りたいと考えている。
DAWやボカロは、「頭の中で出来た音楽を再現するための」道具として使っている。

コード進行に合わせてメロディーを考える、コード先行の作曲方法なら、既存のサウンドを活用しやすいのかもしれない。
筆者の場合は、アレンジされた形で浮かぶ曲を書き止める方法だから、主旋律にコードが付属するかたちになる。手作業の方が融通が利く。

ただし、ギターパートだけは、頭の中と画面上で完成させるわけにはいかない。
5本の指では押さえきれなかったり、ポジション移動が間に合わないような、演奏できないコードを生み出してしまうおそれがあるからだ。
これを防ぐには、ギターで弾いたとおりに、ピアノロール画面で入力すればよい。

そこで、2005年に、2代目のエレキギター(PRS Soapbar SE)を購入した。
1代目のギターは、ライブ後PA車に積んだら行方不明になった。その後、YAMAHAのアコギを購入したが、エレキの方が生音が小さく、夜間でも作業できるからだ。

たとえば、「Samba de Opacidade (不透明のサンバ)」。
オフ・ボーカル版を、piaproで公開した。シンプルなアレンジなので、ギターパートは明瞭だ。(単に書き出しただけで、マキシマイズ等の処理はしていない)

「Samba de Opacidade (不透明のサンバ)」オフ・ボーカル版

このようなタイプのコードを「変態コード」と呼ぶらしい。 弾いたものを打ち込むより、生演奏を取り込むほうが、早いかもしれない。だが、それには、まとまった時間の確保が必要になる。
練習や生演奏は小分けできない。打ち込みなら1小節の半ばでオンコールがあっても対応できる。DAWの利点だ。

巡音ルカさんによるボーカル・バージョン(Apple music)。コード先行型ではないことがわかるとおもう。
筆者20代前半、1985年の作詞、作曲。2011年に、歌詞の一部を修正。いくつかの強すぎるワードを見直した。
社会の先行き不透明なありかたを嘆き、世界を諦観する、ボサノヴァだ。

ライターとして、含蓄のある歌詞をめざしたい。

筆者が創りたい歌は、伴奏なしでも、詩と主旋律だけで成立する歌である。

たとえば、自然のなかに一人佇んでいるとき、ふと思い出して、そっと口ずさむような歌。
また、たとえば、道を歩いているときに、聴こえてくると、ふと足をとめるような。ああ、誰かが、歌っているな、と、一瞬おもい、通り過ぎるような。
歌の上手さには関係なく、1フレーズだけでも、歌い手の内面がにじみ出る歌。

格調高く含蓄のある歌詞。シンプルな旋律。そんな歌を創っていきたい。

筆者が「歌」で発信したいのは、音楽ではなく詩の方なのだろう。
「音」よりも「詩」のメッセージ。コンセプト。
筆者はいずれ去る。筆者の去就に関係なく、未来の生命は続く。
生み出されたいのちが、すこしでも、苦痛なく、循環できるように、過去の歌でも現在の歌でもない。未来のための歌を。

日本語は滅びる。それどころか、言語は滅びる。それはコミュニケーションの中間フォーマットの座から陥落する。
ダイレクト・コミュニケーションの時代が来ても、それでも筆者は、ことばを紡ぐ。

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