アーティストの呼吸と、作品のクオリティ。フレグランス・フリーで守るべきもの。 ~6弦のカナリア(3)~
人馬一体、という。
鞍上人なく鞍下馬なし。
騎手が馬と一体化したかのように乗りこなす。それには、両者の呼吸が合わねばならない。
これは、騎手と馬に限ったことではない。
アーティストと道具でも、同じだ。
生命なき道具に、アーティストが生命を吹き込む。一体化したかのように使いこなす。それには、呼吸を制御しなければならない。
たとえば、画家。画家の手は筆と一体化する。1本の線を引く時の呼吸は、平時のそれとは違う。
作品に対峙するとき、色や形の向こうから、呼吸の履歴が迫ってくる。鑑賞者は圧倒されて、しばしたたずむ。
「息をのむ作品」は、まさに「息」をのむ作品だ。
文筆では、どうだろうか。
文章における句読点は、読者の呼吸を制御する。
意味の区切りを示すことだけが、その役割ではない。
改行も、段落や空白も、選ぶことばもその字数も、漢字とひらがなの使いわけも、すべてが呼吸を左右する。
たとえば本稿冒頭の、1行。
「人馬一体、という。」
これは、次の文とは別物だ。
「人馬一体という。」
音読してみてほしい。または、頭の中に音を浮かべて、比較してほしい。
「人馬一体、という。」では、句読点の位置で、瞬時の呼吸の停止、そして吐気が発生する。ブレスというには弱い、かすかな呼吸の変化。「息をひそめる」と「息を止める」の、あいだである。
そして筆者はといえば、呼吸を意識して書いている。感覚を研ぎ澄ませて書いている。
創作においても、鑑賞においても、その基盤には、ヒトの呼吸がある。
たった1行、わずか8文字でさえ、呼吸が関わるのだ。
ではそれが、1時間、2時間のライブとなるとどうか。
『TERROR SQUAD』はスラッシュメタルに分類されるバンドである。「スラッシュ」というだけあって、高速フレーズをたたみかける。
音の粒を繰り出し続ける、ドラム・ベース・ギター。
圧倒的な速度でありながら、ギターから放たれる音はクリアだ。
出す音を弾くと同時に、出してはいけない音を防ぐミュート。フルピックでのそれは、まさに神業。実行する処理だけでなく、実行してはいけない処理を、確実に実装したシステムのように堅牢だ。そのプレイは、ギタリストの独特の呼吸のうえに成立している。
読者の皆さんも、オシのアーティストのライブ動画で、演奏時の呼吸を確かめてほしい。
では、その呼吸を、強制的に変えてしまったらどうなるか?
リズムが乱れる。違う音になる。それは、わずかな波形の変化かもしれない。大音量のライブ空間なら、誰も気づきはしない、かすかな、ささいな。
だから、気付くひとなんていないんだから、そんなことは、取るに足らぬ、弾けさえすればいいじゃないか、と考えているのだろうか?くだんの日用品のメーカーは。
ある種の日用品は、アーティストの呼吸を乱す。鑑賞者から、間を奪う。創作活動の基盤を壊す。
それを、嬉々として企画し、開発し、宣伝しているのだとしたら―――彼らは、ヒトを知らない。ヒトの創造性の価値を、知らない。破壊しつつあるものの偉大さを知らない。
呼吸の破壊は、アートの破壊。アートの破壊は、文化の破壊。
その先に待ち受けるのは、出口なし、嘔吐に見舞われ、喉をおさえてもがく世界だ。
『TERROR SQUAD』の1stアルバム、タイトルの「the wild stream of eternal sin」から引用しよう。
呼吸を破壊する者たちは、未来永劫、罪を背負う。「eternal sin」から逃れられない。
覚悟せよ。