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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

思い出が、未来が、消える。ライフログを無効化する、香害。~嗅覚センサーを見直そう(18)~

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香害が奪うのは、カタチあるものだけではない。
思い出が、人生の時間が、健康が、原風景が、人間関係が、失われる。
香害のない世界ならばライフログに残ったはずの情報。それらは、決して、取り戻すことができない。

モノとともに失われる、モノに付随する情報

取り返しのつかないモノの損壊、廃棄

移香による被害には、取り返しのつかないものがある。

記念日に着た服。亡きひとの手作りの品。形見の品。

一通の手紙が人生を変えることもある。泣く泣く廃棄した年賀状が、最後の一葉になることもある。
手描きの絵。モノクロームの紙焼きの写真。写真の中でほほ笑む、かつてあった生命。

古書、骨董、趣味のコレクション。手作りのマスコットやぬいぐるみ。親しいひとからのプレゼント。
人生の中で繰り返し読みたい1冊の本にも、移香は容赦ない。

移香したモノを傍に置くと、健康リスクが生じる。室内に保管できない。かといって、無香害のトランクルームを探すことは難しい。結局、廃棄処分するしかない、となる。

非売のノベルティ、記念品、旧式の機器などまで含めると、全国では、どれほどの被害が生じているだろう?

仮に、移香の原因をつくったひとが、その損失に気付いたところで、補償などできない。
謝罪されても、元の状態には戻せない。廃棄されたものは戻ってこない。

記憶を呼び出すトリガとしての、モノ

失われるのは、カタチあるモノだけではない。

「取り返しがつかない」モノには、所有者の歴史が付随している。
モノを廃棄すれば、それとともに、モノに付随する情報までもが失われてしまう。

「個人的体験の記録」という情報の付随したモノには、三つの価値がある。
モノの一意性(≠希少性)、モノを介するひととのリレーション、記憶を引き出すトリガ、である。

中でもダメージが大きいのは、記憶を呼び出すトリガを失うことだ。ヒトの記憶は、時とともに薄れていく。だが、トリガがあれば、鮮明になる。 記憶を手繰り寄せられないもどかしさ。奥底に、過去へのノスタルジアが宿る。

香害は、モノだけでなく、こころをも奪う。

SNSには、嘆きの声が増える一方だ。
自分に非があるならまだしも、他者の使った日用品による損壊では、憤るのも無理はない。

補償不可能な、人生の時間

増える作業、増える手間、浪費される時間

そして、香害は、時間を奪う。

出勤時や外出時には玄関の近くで着替え、帰宅するや着替えて入浴、そして洗濯、というパターンを日課とするひとも少なからずいる。家族全員が同様の作業を行う世帯もあるだろう。以前は不要だった作業に、時間を奪われる。

自営業の場合、時間は成果を左右する。タイミングを逃せば、有形無形の逸失利益が増える。
筆者自身も、心中おだやかではない。
新たな仕事や人との出会い、得られたはずの知識や経験、深められたはずの思考や見識、脳内の神経系の伸張、それらのために使われるはずだった時間を、香害対策や移香除去のための雑用に浪費している。

また、間接的に、他者の人生の時間にも影響は及ぶ。
一例をあげる。筆者は、二度目のヘアドネーションのために髪を伸ばしていた。だが、髪に激しく移香、5回シャンプーしても除去できない。やむなくカットしたため、振り出しに戻ってしまった。ウィッグを付けて登校するはずの児童の人生の時間が、間接的に失われることとなった。

香害のリスクに気付いたひとは、今日も奔走している。
近隣にチラシを配って説明する。マンション管理組合に直訴する。学校や教育委員会に掛け合う。職場の上司に打ち明ける。同僚たちに協力をもとめる。
本来は不要な折衝だ。全国で、多くのひとびとが、貴重な人生の時間を奪われている。

折衝が不発となると、第16回でも述べたように、被害の拡大とともに支出が増える。

汚染された空気の流入を防ぐための工事、空気清浄機等の設置、物損を埋めるための新規購入費用、医療費など。香害をくいとめるには、費用がかかる。
そして、将来、香害が消えた社会では、支出した費用を取り戻すための労働に、ふたたび時間を奪われることになる。
失われるのはキャッシュではない、時間なのだ。
キャッシュを得るために費やした人生の時間が奪われる。時は金なり、ではなく、金は時なり、なのである。

人生でいちばん喜ばしいことは、自分の人生の時間を自分の裁量で使うこと、人生のスケジュールの決定権を持つことだ。
その決定権が、他者の使う日用品によって歪められている。

歩くはずだった人生の道が、寸断される

苦痛をやりすごすことに、人生の時間を奪われるひとたちもいる。
香害をきっかけに化学物質過敏症を発症したひとたち、また、先に化学物質過敏症を発症しており、香害の原因となる物質にも反応するひとたちだ。

筆者のネットの友人は、震災避難のうえに香害と煙害が重なり、全身症状に苦しんでいるという。
自然の声を傾聴し、種をまき、育て、料理を作り、縫い、編み、家族と語らう、つつがない生活に振り向けるはずの時間が、奪われている。
自身は使わない日用品と煙草によって。

香害被害や化学物質過敏症は、病の中では、もっとも苦しい部類のものだろう。

筆者の主観ではあるが、別名「自殺頭痛」と呼ばれる「群発頭痛」よりも、辛いのではないかと推察する。この頭痛と出産と両方を経験したひとが、出産よりもつらいと言う頭痛である。それほどのつらさを耐えられるのは、継続時間が決まっているからだ。あと2時間、あと3時間我慢しさえすれば、という希望が力になる。
ところが、香害被害や化学物質過敏症は、いつまで我慢すればいいのか分からない。1週間先には改善する、1カ月先には転居できる、といった期限があれば、それが力にもなる。だが、期限が不透明となれば、何に希望を見出して耐えればいいというのだろう。

香害問題が未解決のまま長引くと、耐えることだけに時間を費やすひとが増える。人生の時間が苦痛で塗りつぶされてしまう。

香害は、人生に、重荷となってのしかかる。

最大の被害は、人生の歴史という損失だ。
歩くはずだった道が、寸断されてしまう。予定されていた未来へのあゆみを、妨げられる。
将来、症状が軽減しても、苦しんだ時間を取り戻すことはできない。
自分の手で道をならし、本来通るはずだった道とは異なる道を、歩き始めなければならないのである。

ヒトの一生は、短い。生まれたとおもったら、もう目の前に死が迫る。あっという間だ。
その貴重な人生の時間を、理不尽にも奪われる
発症前の健康状態を取り戻すことができたとしても、失われた時間が戻ることはない。

健康被害が、人生を潰す

学歴とキャリア形成を覆う影

思い出が奪われ、時間が奪われ、健康が奪われる。

香害は、仕事を、学業を、人生のチャンスを、台なしにする。

激しい咳や頭痛ともなれば、職務に影響が及ぶ。作業効率は低下するだろう。眼に影響があれば、欠勤せざるをえない。何重ものマスク姿では、打ち合わせでの発言も厳しいだろう。

勤務先や取引先が環境改善に乗り出してくれればいいが、どれほど訴えても改善されないこともある。
上司の嗅覚センサーにバグがあれば、「におわない方が正常、におう方が異常」と判断する可能性すらある。

満足に就労できない日々が続き、配置転換も叶わなければ、転職や退職も視野に入る。
他者の使う日用品が原因で、キャリアが中断されたり、収入を失う。読者の皆さん、あなたなら、納得できますか?

このような被害は、社会人に限ったことではない。
香害のために、学校へ通えない子どもたちがいるという。
休学や自宅療養は、将来の職業選択に影を落としかねない。実力がモノをいうIT業界とは異なり、学歴と資格が必須の職業もある。
精神的なストレスと、ディスコミュニケーション解消のためのエネルギーの浪費が、さらに症状を悪化させる。

われわれは空気を吸わずして生きることはできない。
「香害」は、その音のとおり、「公害」である。
香害が引き起こす疾病は、シックハウス症候群ならぬ、シックエアー症候群といったほうがよいくらいだ。
病んだ空気の中で暮らすがゆえに、ヒトも病む。

生命の危機をも招く、睡眠負債

身体症状を悪化させる要因のひとつに、不十分な「睡眠」がある、と筆者は考えている。
睡眠妨害は、人間にとって耐えがたい身体的苦痛のひとつだ。
ヒトは、数日間、娯楽がなくとも、食べなくとも、耐えられる。だが、数日間、不眠を強制されると、心身が悲鳴を上げる。破綻する。

覚醒時ならば、自らの心身を、多少は精神力で制御することができる。だが、就寝中に、睡眠中の吸気の質を、精神力で制御することは不可能だ。

ましてや、わが国における女性の睡眠時間は短い。ただでさえ満足な睡眠を確保しにくい状況であるのに、空気が汚染されていたらどうなる?
勤務先でも、通勤電車でも、四六時中、汚染された空気を吸い続け、それが睡眠中にもおよぶとなれば、リスクは跳ね上がる。

恐ろしいのは、睡眠負債が一定時間を超えたときの、脳の働きだ。連続稼働に耐えられなくなった脳は強制シャットダウンを実行するよう命令することがある。これに対抗できるのは、「どのみちいずれ眠る日が来る」という、強い諦観に基づく開きなおり、しかない。だが、自分の人生を積極的に諦めることは、難しい。

おそらく強制シャットダウンは人体に秘められたバグではなく、脳が自らを眠らせるためのデフォルトの機能であろう。その前に、記憶があいまいになる、モノを取り落とす、ショートスリープが頻繁になる、などの兆候がある。ところが、ヒトは、そうした兆候に気付いても、社会的動物であるため、逃げることを躊躇する。

強制シャットダウンの兆候を感じたなら、一刻も早く、その環境から離れなければならない。

自分を生かすことができない環境から、ただちに「逃げること」。
それが、生命を守るために、なによりも優先すべき命令だ。
家族、職場、学業、仕事、それらは生命あればこそのもの。その生命が危機に晒されているなら、逃げろ。ほかのことは、逃げた後で考えればいい。

スマホとカードとキーケース、すこしの硬貨の入った財布、水の入ったマイボトル、持病の薬、お薬手帳、それだけバッグに詰め込んだなら、コートを羽織って、ブレーカーを落とせ。
今いる場所よりも、安全な場所へ。今すぐ、逃げろ。

追われる住まい、変わる景色

転居先探しに立ちはだかる困難

ところが困ったことに、逃げろと言われても、逃げたくとも、逃げる場所がない、というのが現状だ。
転居先が見つからないのだ。

国内では、高残香性・抗菌等の製品が拡がりを見せている。おそらく、平野部の大半は、香害で覆われている。
SNSの情報によれば、海外では、我が国ほどの香害は見られないという。だが、海外移住を決断できるひとが、どれだけいるか。仕事や子の通学問題、介護などの問題も絡む。単身者であっても、重症化してからの移住となると厳しいものがあるだろう。

すこしでも空気の良い場所をもとめて、市町村単位まで絞り込んだとする。
ところが、地区によって、香害のレベルにはかなりのバラつきがある。
環境保全意識の高いひとの多く住む自治体であっても、住民の「全員」が同程度の意識を持つわけではない。もし、ひとりでもパワーユーザー(スーパースプレッダー)がいて、風の強い日に外干ししようものなら、周辺一帯にリスクが及ぶ。
筆者は奇妙な体験をしたことがある。校区の境界線上の歩行者用道路を歩いていたとき、校区外の右側を歩くと激臭で、校区内の左側を歩くと微香だったのだ。それほど、小さな単位で、リスクは異なる。

ネットの物件検索では、においなどわからない。SNSで情報提供を呼び掛けたとしても、地区単位まではわからないだろう。
ましてや、前の住人の日用品の使用状況などわからない。衣類の防虫剤、ルームフレグランスなどが使われている可能性もある。それらの種類や残された物質の状況などわかるはずもない。

居住に耐えうる環境かどうかは、短期滞在して、時間帯によって変わる大気の状態を確認してみなければわからない。
だが、一時宿泊先を探すことからして困難だ。
マンスリーマンションやウィークリーマンションには、前の住人の置き土産があるから、滞在は難しいだろう。

それ以前に、交通機関の利用が難しければ、現地へたどりつくことができない。移動可能な範囲で探すとなると、限られる。ネットの友人が徒歩圏内のホテルをくまなく探したところ、高級ホテルにも芳香剤などが置いてあり、諦めるしかなかったという。

仮に、無香害の支援者が自家用車で送迎して、現地へたどり着いたとしても、不動産会社の担当者が無香害とは限らない。

内見を健康な者が代行できればいいのだが、当事者でなければ、わからないこと、気付かないことがある。本人が現地に赴くほうが確実だ。

今このときも、おそろしい空気の中で過ごしているひとたちが、いる。苦しんでいる最中のひとに、なんと言葉をかければいいのだろう?
各市町村に一か所、一時的に避難できる公共施設があればいいのだが、どこも香害に覆われているのではないか。無香害の施設は残されているだろうか?

移転後に巻き込まれる、化学物質曝露

困るのは、移転後に、パワーユーザーが入居してくるケースだ。
分譲賃貸では、上下左右階の日用品使用状況を確認したうえで決断しても、オーナーチェンジ物件が増えていき、入居者が様変わりする。
また、移転後に、外壁塗装や棟内別室のリノベーションが行われる可能性もある。
そのうえ、重複公害がある。香害のうえに煙害というケースだ。煙草アレルギーのひとにとって、香害のない家に移転したはずが煙害にあったでは、生死にかかわる問題となる。

町中に移転するなら、公園等の除草剤、街路樹の農薬散布、交通機関の害虫駆除剤などの問題がある。薬剤の研究が進み、安全性が増したり、規制が厳しくなっているのであればよいが、どうやらその逆もあるようだ。

田舎に引っ越そうにも、野焼きの影響がわからない。かつては、落ち葉だけの焚火だった温かい光景も、今では有害物質を排出する煤煙に変わっているという。

見落としがちなのが、下水の配管だ。前の住人がユーザーなら、洗濯機からつながる配管内には、危険が潜んでいるはず。下水管は、30年ほど前より、土管からの置き換えが進んだ。標準耐用年数は50年、まだ先だ。住民から要望があったからといって、おいそれと取り換えられるものではない。
また、浄化槽、マンホール、用水路も、要注意だ。近隣にユーザーがいれば流れ込む。

運よく移転先が見つかったとする。
移転がまた大変だ。引っ越し業者のトラックには、前に運んだ荷物から零れ落ちた物質が付着している。段ボールや緩衝材を手に入れて自力で運ぼうとするこころみも、これまた難しい。移香していない段ボールや緩衝材が手に入らないのだ。

そして、移転できたとしても、今度は、エアコンの据え付け、火災報知器やガス報知器の検査、サッシや水回りの修理など、外注業者が室内に入ることで、安全だったはずの家が、リスクにさらされる可能性もある。
筆者はリスクのある外注業者に出会ったことがないので、SNSで散見される情報に驚いている。他の地域では、リスクがままあるらしい。

こればかりは、出会い頭の事故のようなもので、避けようがない。

もっとも予測不可能なことは、新製品のお試しキャンペーンである。隣人のもとに、ある日、試供品が届く。一度でも試したが最後、付近一帯の空気が変わる。

この国の町中の空気は、健康なひとが「転地療法」を考え始める寸前の状態といっても過言ではない。
香害被害者、化学物質過敏症者にとっては、逃げ場に困る状況なのだ。

記憶の底に封じ込めた、原風景

万難を排して、安住の地を見出したとする。
そうして、生きていくための空気を手に入れる。だが、健康への切符と引き換えに、原風景が失われる。

見慣れていた風景は、スマホの中に写真として残っているだけで、目の前にはない。
そこに咲いていた花に触れることはできず、今この瞬間に吹いている風を感じることもできず、揺れる葉擦れの音を聴くこともできない。 原風景は、記憶の底で深い眠りにつく。目覚めることのない夢のように。

記憶を手繰り寄せようとするたび、望郷の念が湧き上がるだろう。
長く過ごした場所であるほど、何度となく通った道を歩くことのできない無常にさいなまれるだろう。

他人の使う日用品によって、慣れ親しんだ風景から、切り離されてしまう、という悲痛。
自身には何ら非がないにもかかわらず。

そして、移転の原因を生んだひとたちは、その痛みを共有することはない。知りえたところで、ノスタルジアを癒すことなど何ひとつできないのである。

人間関係に亀裂、破壊されるつながり

引き裂かれる家族、会えない親子

化学物質の影響は、すべての個体に、等しく生じるわけではない。同じ環境に置かれた者が、同じ症状を呈するとは限らない。個体差がある。
異なる環境に暮らしているなら、なおさらだ。たとえば、満員電車で通勤する者と、在宅ワーカーとでは、曝露状況は異なる。家族全員が、特定の製品に対して、一斉に、同じ反応をするとは限らない。
居住地が異なれば、さらに反応は異なる。親子、兄弟姉妹、祖父母と孫。親族だからといって、リスクまで同じとは限らない。

家族や親族の中で、少数が香害に倒れることもある。ひとりだけが、深刻な状況に陥ることもある。
その場合、健康な家族や親族が理解を示して労わる......とは限らない。身内に理解されず、困っているひとたちの、なんと多いことか。

別世帯の家族が高残香性製品を使っており、どれほど説得しても見直す気配がない、という例を、SNS上でしばしば目にする。中には、リスクの低い製品を購入して送っているケースもある。それでも、頑として受け付けないらしい。筆者は、それらの情報は事実であると確信している。無理解に基づく頑固な抵抗は、香害問題に限ったことではないからだ。筆者自身、頻繁に体験している。

家族や親族が理解しないとなれば、どうなるか。
実家に帰省できない。敷居をまたげない。親に会うことすらできない。高齢の曽祖父母、祖父母となると、存命中に手をとり合えるかどうかもわからない。
入院中の身内の見舞いに行くことができない。結婚式や祭事、葬儀や法事に出席できない。
悲しみの声が響いている。

無理解を生む、嗅覚センサーの精度の違い

なぜ、これほどまでに、身内から理解されないのだろうか。

あまりにもセンサーの精度の個体差が大きいということが、一因である。
まず、香りの強度が理解されない。さらに、人工香料ではない抗菌剤などに対しての反応が、二分する。嗅覚センサーの機能する者にとって、その物質は、「香らない」が「におう」。だが、何割かのひとは、その「におい」を、全く感知しない。

疾病に対する考え方の違いも大きい。化学物質による症状を、別の化学物質で抑え込めばよいと考えるひとたちがいる。通院して処方薬を飲めば治るもの、と軽く捉えている。

症状の中には、自律神経にかかわる不定愁訴もあることから、メンタルの問題だと誤解されることもあるという。
「病は気から」を主張し、精神力「だけ」で治るなどという誤解も蔓延している。それを鵜呑みにした言葉が、セカンドアビューズとなる。

有害物質の曝露は、精神力で克服できるような生易しいものではない。

業務の中でプロが扱っていた物質が、ナノテクノロジーの衣をまとって、一般消費財に使われるようになった。そのため、労働災害事例にあるような症状が、民間人にまで拡大してしまったといえよう。そのような製品を、知識も資格もない一般人が安易に使えば、リスクが生じるのは当然だ。じつに単純なことなのだが、これが伝わりにくいときている。

第7回で紹介したように、たとえば、イソシアネートを例にとると、アメリカ環境保護庁 EPAは、ファクトシートの中で、TDIおよびその関連製品を使用するにあたって、一般消費者もプロユースの商品を使う場合は、安全シートや技術製品情報を確認するよう呼び掛けている。

香害に倒れたひとびとやその理解者たちは、これは公害であること、投薬よりもまずは身の回りの化学物質を減らすことの重要性を訴え続けている。

しかし、訴える声をシャットアウトするひとたちとのあいだの距離は縮まらない。亀裂が拡がることすらある。人間関係が崩れていく。つながりが奪われていく。

離れ過ぎた報酬系は対立する

家庭で、職場で、人間関係が、壊れていく―――
曝露に苦しむ者。それを尻目に、規制されていないからという理由で使い続ける者、容認する者、擁護する者。

香害は、原発誘致やダム建設の問題と似ているように見える。
家庭内で、地域内で、推進する者と反対する者が対立する。それまであたりまえに隣にいたはずのひとたちとの関係が悪化する。引き離される。その構造が、似ている。歩み寄り、溝を埋め、着地点を見い出すには、膨大なエネルギーが必要になる。

リスクを知らずに使っているひとたち、情報を知っても理解しにくいひとたち、知っても見直すことができず悩むひとたち、彼らは責められるべきではない。
忙しすぎる日常のなか、端末の購入も含む情報収集力の問題は、当人の努力だけではいかんともしがたい。
伝え方を工夫し、繰り返し説明し、距離を縮めていくしかない。

が、顔を突き合わせ、丁寧に伝えたとしたとしても、情報をシャットアウトするひとがいる。
筆者の卑小な経験からいえば、生活環境にかかわる情報を受け付けないひとたちには、短期報酬系が少なくないように見える。

短期報酬系のひとびとは、「今この瞬間」を生きている。
したがって、具体的、即物的で、目先の利益が約束されているもの、また、目先の不利益が確定的なものには、敏感に反応する。データ化できる情報に親和性がある。計算機的である。
一方、抽象的で、将来利得が不確定で、いま我が身に損失が生じていないものについては、スルーしてしまう。

思考をトレースするなら、このような考えかたになるだろうか―――自分の短期報酬を優先するなら、自分の使う日用品のために、他者の生活が制限され、将来が奪われたとて、それが何になろう。自分の好きな製品を使い続けることには、良い香りに包まれて気分が高揚する、などの利得がある。慣れ親しんだ製品を手放すという、不利益もない。一方、使用製品の見直しには、何の利得もない。それに、使い続けたとしても、必ずしも自分の身に災難が降りかかるとは限らないのだ―――

短期報酬系のひとたちの中には、ストロークの強さは重視するが、ストロークの内容には頓着しないひともいる。使用自粛を強くお願いすれば、その強さだけが印象に残り、話の内容は明後日の方向に押しやられてしまう。
お願いの口調の強さに対抗して、使用量が増える。お願いの回数に対抗して、洗濯回数が増える。傷口は広がるだけだ。

困ったことに、報酬系を決定する要因のひとつは、セロトニンだと言われている(※1)。この神経伝達物質は、食事と腸内環境の影響を受ける。
これでは、腸内環境を整えることに腐心する化学物質過敏症者たちと、食の安全をないがしろにして今この瞬間の味覚だけを重視する短期報酬系のひとだちとの距離は、開く一方ではないか。

ディスコミュニケーションの問題の根底には、報酬系の違いが横たわる。それは、香害問題に限らない。
世界中のさまざまな問題は、異なる報酬系の軋みから生じている、と筆者は考える。たとえば企業における経営方針の違いは、どれだけのスパンの利得を見るかによって生じる。離れ過ぎた報酬系の距離を縮めることは難しい。

※1:「まだ来ぬ報酬を待ち続けるにはセロトニン神経活動が必要」セロトニンが報酬予測の時間スケールを制御する(沖縄科学技術大学院大学、2012年08月01日)

そこにあったはずの情報が消える

クラウドに渦巻く、怒りと悔しさと悲しみ

思い出が、人生の時間が、健康が、ひととのつながりが、失せていく。
その地で重ねるはずだった歳月、可能性は、取り戻せない。見るはずだった景色は、色褪せた。そこに築かれるはずだった歴史は、どこへ行ったのか。

「喪失感」は、補償できない。これは深刻な問題だ。

そこにあったはずのモノ、共にいたはずのひと、あったはずの景色。海馬に、身体の隅々に蓄えられるはずだった情報が、見あたらない。未来を思い浮かべようとするたび、喪失感に拍車がかかる。

そうしてモノやひとや景色から切り離されたにもかかわらず、付随する思い出は、写真や映像のかたちでクラウドに鎮座して、声をあげるのだ。

SNSに投稿された写真。
着ていた服は、彼らの手元にはない。共に写っていたひとは、いまは、隣にいない。背景に映る、家、調度品、花木も、ない。脳裏に焼き付いている風景、風も光も。

記憶のフラグメントは、失われた。

写真から、映像から、テキストから、思い出は遠ざかる。
残存記憶を抽出して、VR/MRであたかもそこにあるように見せ、触覚を再現するデバイスが開発されるとしても、それはまだ先の話である。それまでに、ヒトの記憶は風化する。完全な復元は不可能だ。
なくなったものと、残る情報のはざまに、生きることになる。原風景へのノスタルジア、もっとも制御し難い情動から逃れることかなわず。

ITは、全人を復元するほどのライフログの記録と再現を可能にしつつある。
そのデータが、瞬く間に変わっていく。個人の歴史を形作る情報が切り捨てられる。

このままでは、個体をセンシングして取得されるデータをもライフログに記録されるようになった暁には、怒りと悲しみと苦しみが、ストレージからあふれ出ることになるだろう。

ライフログのシステムに関わるひとびとーーー経営者はシステムの生み出す利潤を追求し、開発者はシステムの構築に腐心する。
だが、しばし足をとめて、思いめぐらせてみてほしい。ハコを作って維持することだけが重要だろうか。蓄積されるデータあればこそのハコ、ヒトならではの情動を喚起するデータを蓄積してこそのハコではないか。

データによって喚起される情動から目を背けた先には、豊かさとは真逆の世界が口を開けて待っている。

近未来、有害物質を防いで生き延びるひとびと

それにしても、香害の被害者たち、化学物質過敏症者たちは、ヒトの進化から取り残されたひとたちなのだろうか?
筆者はそうはおもわない。

人類の生きる道は、つながる相手によって、三つに分かれる。
ヒトとつながるか、計算機とつながるか、自然とつながるか、だ。

ヒトとつながるひとたちは、空気を読みつつ、現状を維持する。だが、化学物質のリスクは容赦なく襲いかかる。病に倒れるひとが増える。

計算機につながるひとたちは、バーチャルな世界に生きることができる。彼らの精神は、スタンドアロンの環境が長期間継続しても崩壊しない。その精神あればこそ、宇宙へ出ていくことができる。化学物質や電磁波に強い個体へと進化し、大気圏外の環境に適応していくだろう。その進化は、いつまで途絶えずに続くだろう?それは、筆者の死後の話だ、知る由もない。

自然とつながるひとたちは、地球にとどまる。化学物質を可能な限り排除した地に移住して、健康を取り戻していくにちがいない。
農業、料理、育児、教育、化学、技術、介護、医療、芸術。さまざまなバックグラウンドをもつ彼らは、コミュニティを形成する。開梱し、自然栽培を試みる。

そして、彼らは、自衛する。
かつてない危機的状況に見舞われたとき、有害物質の嵐の中で、汚れた空気から身を守るノウハウを駆使して、生き延びようとする。寸断された交通網、途絶えた通信網。現代の「見捨てられた町」のなかで。

見捨てられた町---ベルギー象徴主義、フェルナン・クノップフの絵画である。近未来、われわれは、その印象の彼方に、描かれてはいない聳え立つ山を観ることになる。すそ野に動く人影が揺れる。耕すひとたちがいる。それは、彼らではないのか。

もし、あなたが、この地にとどまり、生き延びたいのならば、彼らの苦しみを直視せよ。カナリアたちから、学べ。
彼らのメッセージが、われわれの未来を手繰り寄せる。
物語を、紡いでいるのではない。これは、リアルだ。この国で、起きていること、起こること、なのである。

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