一人称の総量規制から始めよう。~嗅覚センサーを見直そう(13)~
技術革新により、資源を効率よく活用できるようになっても、使用量や排出量に、上限はある。
自分の生活に必要なものは、何なのか。優先順位をつけて、絞り込んでみてはどうだろう?
それぞれのひとが、自分の使用量と排出基準を定めて実行すれば、環境負荷の増大を先送りできるのではないか、とおもうのだ。
日常生活の中の、「MUST事項」を、見直そう。
この十年、洗浄・塗布・噴霧する日用品が、とみに増えた。
近所の店で気軽に購入できることもあり、ヒトの心身および環境に、深刻な影響が生じ始めている。
解決策は、ライフスタイルの再構築。
生きていくために必須でないものについては、使い方を見直してみる、それしかないのでは?
その日用品は、「どのような環境でも」「すべてのひとにとって」、必要なのだろうか?
テレビCMが「Hello!World!」を連呼しているから、わたしもみんなも「Hello!World!」と言わなくちゃ......。いや、それ、端折りすぎてる。
「任意の日用品を使う」という処理は、「条件分岐」によって、実行するかどうかを判断したほうがよい、とおもう。
地球環境は、刻々と変わる。古生代なら、合成洗剤やプラスティックが少々環境に漏れ出たからといって、(良いわけではないが)影響は軽微だったろう。だが、今は違う。回収できないマイクロプラスティックが、日々蓄積し続けている。
人体も変わる。体質、年齢、職種、処理できる化学物質の種類も量も、健康状態も、刻々と変化する。
「いかなる環境でも」「すべてのひとにとって」「いつでも」必要なものなど、ない。
現代日本社会では、日常生活の中のすべての行動が、「MUST事項(マストじこう)」と化しているようである。
「MUST事項」とは、仕様書で定められている実装の義務付けのこと。ひとつの仕様書の中に「いくつか」ある。仕様書で定められるすべてが「MUST事項」というわけではない。
ところが、日常生活では、生活のすべてが「MUST事項」......のように見える。
洗濯するなら柔軟剤は使わ「なければならない」、家臭や体臭は合成香料で覆い隠さ「なければならない」、衣類も備品も徹底的に除菌し「なければならない」。一匹の蚊が室内に入ってきても、手で取るではなく、締め切って、殺虫スプレーを吹か「なければならない」。
身近な誰かが使っているから、流行のものだから、使わ「なければならない」。
そうし「なければならない」と、誰かが決めたわけではない。
CMは高頻度で流れている。単に流れているだけである。メーカーが使用を強制しているわけではない。
使うべきかどうかを熟慮せず、右へ倣えの空気をよんで使い始め、使う日常がデフォルトになってしまい、やめられなくなる。
使わ「なければならない」と思っているのは、誰なのか。消費者が、自分の中に芽生えた「MUST事項」に縛られているだけではないのか。
日常生活での「MUST事項」は少ない方が暮らしやすい、と、わたしはおもう。ストレスの少ない社会になる、とおもう。ラクになれる。ゆとりができる。やさしくなれる。そのほうが、われわれは健康を維持できる。良い循環ができる。
「MUST事項」から、思考を解き放とう。
環境と生活という条件でふるいにかければ、必須のものもあれば、不要なものもある。使いたければ使えばよいものがある。強制されても拒否したほうがよいものもある。ケースバイケースで、使う製品を判断すればいいではないか。
Levi's 501のタグには、こんな表示がある。「私たちの地球の為に、必要以上の洗濯は避け、水で、吊り干し、そして寄付またリサイクルへ。」
今治タオルの説明文は、こうだ。「お洗濯の際は、柔軟剤を入れると吸収性が損なわれるのでおひかえください。」
消臭や香り付けという効果以前に、洗濯時にその製品を使うこと、頻繁に洗濯すること、除菌すること―――使わ「なければならない」、それは、消費者の思い込みではないか。決して人類の「MUST事項」ではないのである。
限られた資源をシェアする、こころと、こころみ
環境保全には、代替品の技術開発だけでは手詰まりになる。
資源を効率よく使う方法や、より安全な代替資源を見出すことはできても、環境負荷ゼロで資源を無限に増やす方法を見出すことはできそうにもない。
ブラックホールにゴミを捨てて発電するペンローズ・メカニズムの実施を夢見ながらも、今日のゴミを減らす方法を考えなくちゃ。
技術開発と併行して、個人単位の総量規制を実行したほうがよい。
「MUST事項」に縛られず、日用品を見直そう。何を使い、何をやめるか。個人で、世帯で、さらには地域で。
まず、テーブルに、家の中にあるすべての日用品を置いて、環境負荷の大きい順に並べてみよう。
そして、それぞれの製品について、「自分が基本的な社会生活を送るために必要かどうか」を吟味してみよう。他者との関係性で揺らぐような必要性ではなく。
あのひとが使っているから、わたし「も」必要―――その判断基準は、環境破壊を加速させる。たとえば、エベレストや富士山のゴミ集積。絶景に、自然が許容できる以上の観光客が訪れる問題。どれも、わたし「も」、が生んだ悲劇である。わたし「も」、は、避けよう。わたし「は」、だ。
環境保全のために必要なのは、「追加すること」ではなく「絞り込むこと」。「実行すること」ではなく「抑制すること」。
AIが進化するほど、ヒトにもとめられるのは、俯瞰した視点からの長期的な「判断」、処理の「停止」になる。
自分に問いかけてみてほしい。その製品は、自分にとって、ほんとうに、必要だろうか?
あのひとには必要、わたしには不要。逆に、わたしには必要で、あのひとには不要。両者ともに必要だが、あのひとのほうが多く必要、わたしは少しだけ必要。またはその逆。いろいろなケースがあるだろう。皆が皆、同じものを同じだけ使うのではなく、譲り合えばいい。
接客の仕事に就くひとには、化粧品やネイルは必要だろう。だが、バックエンドの技術者には必要ないだろう。
虫の多い場所に暮らすひとには、防虫スプレーは必要だろう。だが、虫の少ない場所に暮らすひとには、さほど必要ない。
日用品に限らない。すべての資源について、必要ないひとは使用を減らして、必要なひとに使用量を譲ればいい。
たとえば、世界中を飛び回るCEOや輸入業者には航空機の燃料オイルが必要だが、在宅ワーカーにはそれほど必要ない。
個人単位で使用量や排出量を譲り合えば、地球民全員の使用量や排出量が爆発的に増える未来を遅らせることができる。技術開発に必要な時間稼ぎをできる。限られた資源を融通し合えば、個々の痛みは最小限に、環境汚染は最小限に抑えられる。
自分の生活の中で、買うもの、使うものに、優先順位をつけてみよう。
何を節制するかは、それぞれのひとが考えて決めればいい。
「バランスへの配慮」こそ、大人のたしなみだ。
そうして、使わずとも済む製品、使わずに済ませる方法を見つけたら、ブログやtwitterで発信してみてはどうだろう。
「日用品」という生活感がもたらす、「軽いノリ」のTips & Tricks
それがもし、ガラスの遮光瓶に入った化学薬品なら、消費者も、影響を重く受け止めるのだろう。
ところが、ファッショナブルな樹脂製パッケージに入った日用品。ドラッグストアでは、カップ麺と同じ扱い。
環境リスクのある製品であるにもかかわらず、子どものおつかいでも、買うことができる。
このような気軽な扱いでは、消費者は、環境や健康に影響を及ぼす化学物質が含まれているなどと思うはずがない。
「UFOの麺にレトルトカレーをかけてみました。どん兵衛を10分待ってみました。ごはんを追加して雑炊にしてみました」といった、カップめん試してみました、と同じノリで、「ふたつの日用品をブレンドしてみました、規定量以上使ってみました、衣服や家具に後付けしてみました。」
カップ麺の新製品を待つように、香り付き製品の新製品を待つ。発売されるや購入し、何種類もストックして安心する。ブレンド方法、投入のタイミングを、披瀝する。どうすれば美味しいか、いや、どうすればよく香るか。
カップ麺なら、どんな食べ方をしようと、きちんと容器を処理するなら、他者の人生には、あまり影響を及ぼさない。いいぞどんどんやれ、だ。防災面から、ストックするのもいい。
一方、香り付き製品の方は、盛り上がれば盛り上がるほど、他者の人生に影響をおよぼす可能性が高まる。健康を、日常生活を、仕事を、人間関係を奪ってしまうことが起こりうる。 にもかかわらず、カップ麺と同じ気軽なノリの、Tips & Tricks。
ネット黎明期によく使われた言葉、「Tips & Tricks」の根底には、自己犠牲の精神がある。
たとえば、自分のPCに不具合が生じる恐れのあるベータ版を率先して試し、問題の有無と解決策を公開するなどだ。
Tips & Tricksの発見と発信は、他者を助けるためにするものであって、他者を傷つけるためにするものではない。
その日用品は、ほんとうに必要か?
生活の中に増え続ける、合成化学物質
普段の生活の中で、われわれは、どのような合成化学物質を取り込んでいるだろうか。
わかりやすい動画が、公開されている。
「カナリアからのメッセージ 〜化学物質過敏症のない未来へ〜(ダイジェスト版)」
(シャボン玉せっけん「シャボンちゃんねる」 2019/06/04 公開、監督・撮影 :オオタヴィン、ナレーション:小雪、音楽:ウォン・ウィンツァン&真砂秀明・太田美保)
この動画の中で取り上げられているものをリストアップしてみた。
「柔軟剤、合成洗剤、歯磨き、水道水、芳香剤、食器、台所洗剤、コーヒー、ウィンナー、パン、サラダ、化粧品、服」(以上、動画からの引用)
皆さんは、生活の中でどれだけ取り込んでいるだろうか。
わたしの場合、コーヒーを豆から挽いて楽しむが、それ以外のものについては、取り込んでいる量は、きわめて少ない。
これまで、界面活性剤やジアゾ感光紙やMMA樹脂飛沫やキシレンなど、なにかと曝露してきた。心肺機能は数字の上では弱い方だし、経済面でも生活面でも家族親族のサポートは受けていない。それでも、曝露の都度、比較的すみやかに回復してきている。
生活の中で取り込む化学物質の総量の少ないライフスタイルが、回復を後押ししているのではないか、とおもっている。
ダイエットでもそうだが、入力より出力が大きければ、結果はついてくる。身体の処理能力を「劇的に」アップすることは難しい。ならば取り込むカロリーを減らすのが合理的な方法だ。
健康を維持するにも、健康を回復するにも、同じ考え方でのぞむといいのではないか。排出能力を「劇的に」アップすることは難しい。ならば取り込む化学物質を減らせばいい。細かく製品別に使用量や使用頻度を減らす前に、まずは、必須ではないものを収納庫に移動させて、それで生活できるかどうか試してみてはどうだろう。ざっくりと総量を抑えてみるほうが簡単だから。
柔軟剤、合成洗剤、歯磨き
動画の中にある、それぞれの製品について、述べてみる。
わたしは、柔軟剤を使ったことがない。
ハードウェアでもプログラムでもGUIでも、必須ではない機能や処理は追加しないほうが安全だ。洗濯洗剤だけで安定稼働しているので、それ以上、バグの生じる可能性のあるものを追加したくない。
洗濯は、石けんで手洗い、水洗い、そして、シャボン玉純植物性スノールだ(2021年11月本段落を修正)。以前は、「arau(純石けん分。合成界面活性剤、蛍光剤、漂白剤、合成香料、着色料、保存料 無添加)」と、冬場のウールのみ「バード(純植物油脂の界面活性剤、蛍光増白剤、ABS、LAS、香料、着色料、酵素、リン酸塩、酸化剤、メチルアルコール、不使用)」を使っていた。どちらも、環境に、「非常に良い」わけではないが、合成洗剤よりは「かなり良い」。(低負荷の洗剤でも環境リスクはあり、石鹸などのにおいが体調に影響するひともいる。これさえ使っていれば万全というわけではない。また、全員が全員、石鹸洗剤を使わ「なければならない」わけではない。)
ほかにも、何種類ものせっけん洗剤がある。arauには、ラベンダーとミントの香りがあるので、ほかの製品のほうがよいかもしれない。
歯磨き粉は、月1回のメンテナンスに通う歯科で、ハブラシとともに購入している。「歯磨き粉はあまり付けなくていい」という歯科衛生士さんの指導に従っている。シャボン玉せっけんの歯磨き粉は、以前使ったことがある。あまり泡立たず、汚れ落ちはよかった記憶がある。
マウスウォッシュは使っていないので、わからない。非常時には役立つような気がする。
水道水
ライカのポットを長年使っている。近年、カウンター付きになったことに首をかしげている(蓋を廃棄するときどうすればいいのか)。
冷たいものを飲む習慣がない。さいきん、有機玄米ほうじ茶を、ドリップで淹れてみている。ドリッパーは樹脂ではなく、ガラス製だ。フィルターはケナフの無漂白。水に含まれるらしいマイクロプラスティックが、コーヒー殻や茶殻に少しでも吸着しないかなあ。
芳香剤
芳香剤は使わない。消臭剤も使わない。
食器
樹脂のタッパーと、たまごゆで器と、電子レンジは、家族のためには、必要不可欠だ。
わたし自身は、もっぱら陶器、愛媛県民につき、砥部焼。昭和の人間だからか、おむすびやおかずが冷えていても問題ない。冷や飯は、お湯漬けにするか、キャプテンスタッグのカートリッジクッカーで粥か雑炊にするので、筆者自身には、レンジは必須ではない。
台所洗剤
ミヨシの「菜の花せっけん洗剤」を使っている。とくにこだわりはないが、いいですよこの洗剤。台所洗剤は、家族のためには必須。筆者は、稀に油あげやごま油を使ったときに、必要になる。
コーヒー
香りや味というよりも、豆を挽いて、ゆっくり淹れている時間が好きだ。もちろん、環境負荷の少ない(と考えられる)豆を買っている。
コーヒーの「アクリルアミド」は、加工過程で発生するもので、人為的に後から添加された合成化学物質ではない。その点は、ほかの日用品や農薬などとは異なるのだけど。
参考:農林水産省「アクリルアミドが含まれている食品」
ウィンナー、パン、サラダ
ウィンナーって、最後に食べたの、いつだったかな。数十年来の、「ゆる」ベジタリアン。ただし、業務上では感謝の気持ちを表明するために肉も食べる、つまり、「ゆるい」。2000年頃にステーキを馳走になって以来、哺乳類の肉は食べていない。だが、家族のためにはステーキを焼くし、牛丼も作る。このへんも「ゆるい」。台所歴が長いので、味見をしなくても紙上デバッグ方式で作れる。食には個体差がある。肉が身体の維持に必要なひとは食べたらいいとおもう。
パンは、稀にバゲットでサンドイッチを作る程度。自分でPOMケーキは作る(南部地粉、てんさい含蜜糖、土佐のあまみ塩)。家族はパンが大好き。親は毎日でも菓子パンを食べたいひと(高齢者って菓子パン好きだよね)。頼まれて、しょっちゅう買いに行ってる。
生野菜のサラダはほとんど食べない。温野菜を食べる。火を使うのが人類である。わたしは人類である。火を通す。ドレッシングは、森の三角ぼうしの「鬼味噌」を地藏味噌の「ゆずポン酢」で溶いたもの。高田商店や、馬路村のゆず酢も美味しい。四国のゆず酢、おすすめ。
化粧品
生まれてこのかた一度も化粧をしたことがない。
小学生のころ、母が化粧する様子を観察し、きちんと化粧した翌日は、必ず、吹き出物に悩まされているということに気づいた。なぜ大人は、健康に良くない薬品を顔に塗りたがるのだろう、と思った。大人になっても化粧するまい、と思った。(今では、身体に悪くはない製品もあるだろうが、当時は、ないに等しかった)
縁の下の技術職に就いた。もとめられるのは、高品質で正確な成果だ。技術セミナー登壇でも、参加者がもとめるのは、持ち帰ることのできる情報だ。必要なのはわたしの顔面の見た目ではない。
ただし、今後も、香り付き製品の移香が続くようなら、皮膚からの吸収を抑えるため、保護クリーム代わりのファンデーションを塗る必要が生じるかもしれない。
すべての女性にとって「化粧は、みだしなみ」というわけではない。
特定の職業にとっての、みだしなみではある。タレントや女優やモデルなら、もちろん化粧は仕事のツールだ。受付や、営業や、外商など、人と会う職業なら、相手に好印象を与えるために、顔に浮かぶ疲労を覆い隠すために、化粧は有効なツールだ。
また、事故などでの心の傷を隠すため、アートメイクを趣味にしているなどの理由で、化粧を必要とするひともいるだろう。
だが、ビジュアルが仕事の成果に影響しないなら、化粧は必須ではない。化粧したほうが気分があがって良い仕事をできるなら、すればいいだけだ。
必要性がなく化粧したくないひと、皮膚の弱いひとが、「マナーだから」と半強制する空気に迎合する必要はない、とおもう。
すべき人はする、したい人もする、しなくても問題ない人やできない人はしなくてもよい、それだけのことだ。
なぜなら、女性の全員が化粧をするよりも、必要なひとだけする方が、洗顔や容器の廃棄によって環境中に排出される化学物質の量を、減らせるからである。
ゼロにする必要はない。ムリなく減らすことができる範囲で、すこしでも減らせばいいではないか。「みだしなみ」という五文字で、わざわざ環境負荷を上げる必要はないだろう。
わたしは、お肌のお手入れや、エステにも無縁だ。それらをしないほうがいい、というわけではない。必要なひとはすればいい。あくまで、わたしはしない、というだけだ。洗願は、朝は水だけ。入浴時に手で「キューピー ベビー石けん」を泡立てて使用。当然、スクラブ入りの洗顔料は使ったことがない。
ちなみに、化粧ついでに言えば、パンプスもはいたことがない。重厚長大系の職場では不要、どころか、「履いたら危険」。標準的なスニーカーも危険。わたしは、甲と靴底が厚いトレッキングシューズを履いていた。最良は、現場入りの時だけ、鉄芯防滑の安全靴に履き替えることだろう。
服
以前書いたように、環境負荷の高いフリースは封印した。もっとも、それ以前の、2016年12月を最後に、フリースは着ていない。
もともと天然素材の服が大半だったため、影響は軽微だった。
一年中、綿かリネンのシャツに、Levi's 501に、綿かリネンのワークコートを羽織っている。いわば、My制服。外出時には、外出用のLevi's 501と、綿かリネンのアウターに着替える。冬には、ミュールシングしていない羊さんのウール100%のニットを着る。(2021年訂正:介護のために防水機能が必要となり、室内では、ワークコートではなく、アウトドアメーカーのナイロンジャケットを着るようになっている)
わたしの服選びの基準は、ブランド(環境負荷、児童労働の有無、耐久性、動物への負荷)、サイズ、デザイン、価格、販売店の対応、の順だ。
しかしながら、どうやら香り付き製品包囲網に入りこんでしまったようで、「ブランド × ショップ」の、完全に無香の組み合わせが、なくなりつつある。
Levi's は、基本的に無香だ。一度だけ、試着品なのか、移香していたことがあったが、数回洗ったら、はけるようになった。
ヘビーオンスのデニムは、移香を落としやすい。また、綿100%の藍染製品は、移り香が付きにくいようだ。
度重なる曝露から、わたしが回復する理由
上記以外にも、身の回りには多くの合成化学物質があふれている。そうした製品を、わたしはできるだけ避けて暮らしてきた。
客用駐車場が広いのだが、除草剤は使っていない。ときどき草刈り鋏でカットし、年2回、全面除草作業をシルバー人材センターに外注している。
消臭スプレー、塩素系漂白剤、防虫剤、は、使ったことがない。殺虫スプレーも(スズメバチ以外では)出番はない。制汗剤、トリートメント、ボディシャンプー、洗顔料、入浴剤、パーマ剤、染髪剤、スキンケア製品、ムース、ミストも、使ったことがない。ネイルにも無縁だ。ただ、手指のファッションで気分が上がるという感覚はわかる。だから、季節に合う色のリングやブレスを揃えて使い分けている(秋は当然みかん色)。入浴剤も使ったことがない。必須だとおもっているひとが多いようだが、必須ではないのだ。リンスは学生時代に使ったことがあるが、その後は使っていない。
ハンドクリームは20年ほど前から使っていない。界面活性剤入りの製品を高頻度で使う職業に就いていたり、大家族の家事を担っているひとには、必要だろうとおもう。
シャンプーは、20代のころは使っていた。その後は、せっけんだ。手で泡立ててて洗い、ときどき、スダチなど柑橘の搾りかすでリンス(愛媛飲料さんがPOMリンスを開発してくれると喜ばしいのだが)。
が、数年前から、ヘアドネーション用に伸ばし始め、シャンプー復活。「やさしく頭皮を洗うシャンプー / 大島椿」を使っている。ドライヤーは持っていない。タオルドライだ。
美容室へは、長年行っていない。カット代に口出しする家族を論破するのが面倒くさくて、セルフカットしていたら、ヘアカラーをするひとが増えて、美容室は化学実験工場の様相を呈すようになってきた。このままなら一生行くことはない。
ハサミ1本の技術をもつ「無香の」美容師さんが訪問カットするなら、化学物質過敏症者に歓迎されるのでは?と、ふと思った。
入浴には、タオルとベビー石けん。ボディブラシは持っていない。使ってはいないが、ヘチマは、いいと思う。ヘチマを育てるのは、とても楽しいからだ。
浴室の掃除には、前述の「バード」を使っている。水シャワーをかけながら、デッキブラシやハードスポンジで洗う。目地には使い古しのハブラシ。ここ3年は天井掃除をする余裕がなく、専門業者に外注しているので、年2回、洗浄剤を使っていることになる。これは、いたしかたなし。
自分で、自分の使用量と排出基準を定めよう
生活の中の化学物質を、一気にできるだけ多く排除しようと頑張りすぎると、排除し「なければならない」という、「MUST事項」に縛られる。
優先順位をつけて、他者や社会への影響が大きいものから順に、ムリなく、できる範囲で、減らせばいいのではないか。最初は、慣れ親しんだものが目の前から消えて、戸惑うかもしれないが、徐々に慣れる。
合成洗剤ネイティブの世代には、それらを使わない生活はイメージしにくいかもしれない。
その点、昭和世代は、それらがなかった時代の暮らしを知っている。使わなくても暮らしていけることを知っている。
それもあって、参考になればと思い、自分の使用状況を書いてみた次第。
わたしは仕事で、ラップトップやデバイスやケーブルや周辺機器や、その昔は3.5FDやCD-ROMなどの樹脂の記録媒体で販売されるソフトウェアを使ってきた。仕事では、化学物質満載の電子機器を、買い替えながら使っているわけだ。そして、今後も、何台かは買うだろう。
だからこそ、それ以外の場面では、使用量を減らす。排出量を考える。できるだけ、環境汚染をしない生活を心がけ、自分なりの排出基準を上回らないように生きていきたいとおもっている。
一人称での、総量規制。ひとりひとりのライフスタイルの見直しが、環境負荷に拍車をかけることを防ぐ手段になりうるとおもっている。
フード・マイレージのように、合成化学物質やマイクロプラスティックについても、マイレージを考えてみよう。自分が使っている日用品を見直して、個人単位の総量規制ができたなら、家族や友人に問いかけてみよう。世帯単位の総量規制、その次は、地域単位の総量規制。さらには、市町村、都道府県、そして、日本へ。化学物質の自主規制を、始めてみよう。
何を見直せばよいか、特定非営利活動法人 化学物質過敏症支援センターによる「化学物質過敏症ハンドブック(第2版)」も参考になるだろう。
高齢者層は、社会的な役割を考えよう。
化学物質過敏症者の雇用を創出しようとしている「お菓子のふじい」のブログに、「ハンドクリームに、制汗剤、化粧品など もう、多岐にわたりすぎて防ぐのが限界」と書いてあるのを見て、わたしは時代の流れを感じた。そして、この問題の根深さを思い知らされた。
合成界面活性剤を含む洗浄剤や、スクラブを含む洗顔料や歯磨き粉が健康によろしくないことは、何十年も前から言われていた。だから、そうした製品は、一部の、職業上使わざるをえないひとが使うものだと、わたしは思っていた。あるいは、背徳的な感覚をもつひとがリスクを知ったうえでアートのツールとして使うのだろう、と。
だが、現実は違った。
高度経済成長期の公害を体験しておらず、その報道をリアルタイムで目にしていない若年層は、化学物質の負の側面を、あまり考えないのかもしれない。
環境汚染を引き起こすとは知らぬまま製品を使い始め、健康を害して初めてそのリスクを知るという、不幸で気の毒なことが起こり始めているような気がしてならない。
近年、はなやかなテレビCMを目にすることが増えたような気はしていた。とはいっても、一昔前と違い、インターネットが普及している。デジタルネイティブの若年層はテレビよりネットから情報を得るだろう、と思っていた。
ところが、知らぬ間に、若年層のあいだで、環境負荷が低いとはいえない日用品がデフォルトになっていた。
そうした新製品を企画したのは、若いひとたちかもしれないし、中堅かもしれない。だが、これを容認し、推進しているひとびとの中には、高年齢者もいるはずだ。
高年齢者の役割のひとつに、長期的視野で俯瞰して、外からブレーキをかける、ということがある。若年層の挑戦を後押しし、無謀は制御するのが、高年齢層の役割だ(その逆で、挑戦をつぶし、無謀をスルーするひともいるわけだが)。それには、時代の進化に合わせて変えるべきもの、変えてはいけないものを、見極める姿勢がもとめられる。「きれいな大気、水」を変えてしまわないよう、ブレーキをかけるのは、かつての公害を知る高年齢層の役割のはず。
そして、高年齢者自身も、できるだけ、環境保全を意識して暮らそう。
地球は借り物、できるだけ人為的な改悪をせずに次世代に引き継ぐようにしよう。原状復帰費用を請求されないからといって汚しっぱなしで、この世を去るつもりなのか。人生の旅の恥はかき捨てなのか。
同じ高年齢層のひとりとして、苦言を呈しておきたい。高年齢者は、自分の、果たすべき役割を......。
あって当たり前、使って当たり前の製品の見直しを、すすめることには難しいものがある。
しかし、このままでは、取り返しのつかないことになる。健康に自信のあったひとたちも、倒れ始めている。
この問題の重要性に気付いたなら、良心をもつひととして、判断し、実践し、発信してほしい。
ところで、(2019年現在)、北海道の老舗菓子舗「お菓子のふじい」が、工場を建設し、スタッフ募集を開始している。
羊蹄山と半月湖。ニセコの美しい風景の中で、働くことができる。香り付き製品を使用するひとが多い職場で、自粛への理解をえられず退職したひと、退職予定のひとは、転職先として考えてみてはいかがだろうか。
カナリアップ工場&寮で、住み込みで働けるスタッフ募集 2019.6「化学物質過敏症&ニオイが苦手な人向け」