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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

イージー・アイデンティティ、ワンタイム・アイデンティティ ~嗅覚センサーを見直そう(8)~

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香害のリスクを軽くとらえているひとは、嗅覚センサーの修復を。

身の回りに忍び寄る、香り付き洗剤や柔軟剤の臭い。
わたしの嗅覚はそれらにリスクを感知する。だが、身近な三人の親族は、平気である。

なぜ、このような違いがあるのか?

相方は、嗅覚を失っている。
長年、鼻づまりに悩まされ、市販の鼻炎スプレーを長期連用。それも効かなくなって耳鼻咽喉科を受診。処方薬ですみやかに鼻づまりは治ったが、嗅覚をまだ取り戻せてはいない。

わたしの母も、においが分からない。
数年前、怪我で入院していたときのごと。同室の入院患者たちが、配膳室からのにおいに「今日の夕食は何かな?」と話していても、母は会話に参加できず、嗅覚の異常に気づいた。みかんを鼻に近づけると、なんとなく分かる程度だという。この嗅覚の衰えは加齢によるもののようだ。

もうひとりは、相方の親族。
香り付き製品のパワーユーザーで、洗剤や柔軟剤の買い置きは、マンションの総容積の1割以上を占めている計算になる。居室にはルームフレグランス。一度、相方が代理で受け取って半日預かったとき、ダイニングの隣の部屋に置いたのに、未開封の状態で、その日の夕食のカレーの香りを完全に打ち消した。
きれい好きで、洗剤やシャンプーは多く使う。そして、外出時には、柔軟剤スプレーをコロンのように手首につけるという。
洗剤や柔軟剤やフレグランスがあふれる部屋で暮らし、香り付き製品で服や髪を洗い、直接身にもまとうという、香り三昧の暮らし。
つまり、合成香料に慣れすぎている。且つ、今年はこれまで無縁だった花粉症に見舞われているという。嗅覚が機能しているはずもない。

この三人、鼻以外は健康かといえば、 メンタル系の薬も含む、何種類もの薬を服用している。相方は、病院で処方された薬だけでなく、多種多様なサプリメントも飲んでいる。
つまり、三人とも、長年、日常的に、薬を取り込んでいる。

一方、わたしはといえば、スギ花粉へのアレルギーはあるが、この数年、花粉症には見舞われておらず、嗅覚は機能している。
月1回の歯科のメンテナンスと、睡眠負債から低音感音性難聴などで耳鼻科に通院することがある以外は、病院には無縁。日常的に服用している薬はない。さらに言うなら、更年期障害知らずで、四十肩五十肩にもならず、失った歯は異物混入で欠けた1本だけ。
つまり、健康である。

嗅覚が機能せず他の疾病も併せ持つ三人が、機能する嗅覚を持ち健康なわたしのことを、「気にしすぎ」だと思っている。
彼らから見れば、臭いを気にするわたしのほうが、おかしいのである。

なぜなら、三対一だからだ。地域の身内という母集団では、香りを平気な三人のほうが多数派だからだ。
だが、健康なのは、わたしのほうだ。

気にならない者からみれば、香害を言う者は、過敏。気になる者からみれば、平気な者は、鈍感。相対的なものでしかない。

ネットや本での情報によれば、香り付き洗剤ユーザーの中には、香害を訴えるひとのことを、心因性だと思っているひともいるという。
だが、わたしの身内という狭い母集団では、「メンタルの薬を服用している」ひとの方が香りに平気で、「何も服薬していない」わたしが香害を訴えている。これをどう解釈すればいいのだろう?

わたしは、嗅覚センサーが機能している健康体だからこそ、リスクに気付くのだ。
日常的に薬を取り込んでいないからこそ、洗剤の臭いの中に健康に害をなす化学物質が含まれていることを、敏感に察知するのだとおもう。
あの臭いの中にリスクを見出さないひとの嗅覚には、なにかトラブルが発生してはいないだろうか?あるいは、日常的に薬や多くのサプリメントなどを摂取していて、合成化学物質に過剰適応しているのではないだろうか?

いや、それならば、嗅覚の敏感な者が、何もリスクを感じない者に歩み寄り、香りに慣れるべきだ、という意見もあるだろう。
だが、わたしが歩み寄って我慢し続けたら、遠からぬうちに化学物質過敏症を発症するにちがいない。
嗅覚の機能するわたしが、臭いの分からない身内の感覚に合わせる、個人的なメリット、社会的メリットがあるだろうか。
ただでさえ、生活習慣病をもつ人口ボリュームゾーンの団塊世代が高齢化する。これ以上、健康を損ねるひとが増えたら、この国の健康保険制度を圧迫することになるだけだ。

もし、香り付き製品を規定量以上に使ったり、香害を言うひとにウンザリしているなら、においを感じにくくなっていないか、なにかほかの香りのあるもの、果物やコーヒーを嗅いでみてほしい。嗅覚が弱っていると思われるならば、嗅覚センサーの機能していないひとが、センサーの修復をはかることのほうが、先決ではないだろうか。

製品規制は難しい。耳鼻咽喉科の学会が「嗅覚は弱っていませんか?」といった、受診を呼び掛ける活動をしてくれたらなあ(希望)。

想像力で、遺伝する機能を超えよう。

嗅覚センサーは、耳鼻咽喉科に通えば、復元できる可能性がある。

とはいえ、それぞれの復元した嗅覚が、同じ機能や精度を持つとは限らない。
五感のセンサーの機能と精度は、遺伝と加齢の影響を受けるからである。

たとえば味覚で言えば、第6回目で書いたチオウレア。
チオウレア系の物質に苦味を感じる方が多数派だという。苦みを感じる方が神経質なのではない。感じない方が少数派なのだ。この苦みを感じる機能は遺伝するらしい。努力や訓練で獲得できそうにはない(「フェニルチオカルバミド」で検索すれば情報を得られる)。
また、聴力は加齢の影響を受ける。モスキート音が聴こえくなると言われている。

五感のセンサーは、ひとそれぞれだ。
体験できないものを想像することは誰だって難しい。
それでも、ヒトには、想像力がある。

想像してみよう。
自分より視力が良いひとのことを。想像してみよう。宇宙飛行士やパイロットやサバンナに暮らすひとびとのことを。彼らの目に、対象がどのように映るかを。彼らは、見えすぎる面倒なひとたちだろうか。
聴力が良いひとを、想像してみよう。絶対音感がある音楽家のことを。その耳がとらえる音を。彼らは、聴こえすぎる神経質なひとたちだろうか。
味のよくわかるひとを、想像してみよう。料理人はこだわりの一品をつくってくれるし、グルメなひとは美味しい店を教えてくれる。コーヒー鑑定士のおかげで美味しいコーヒーを楽しめる。彼らの舌は、この社会には不要だろうか。
嗅覚が良いことは、いけないことだろうか。いちはやく、ガス漏れに気付き、ボヤに気付く。嗅覚が良いひとは、社会に役立ちはしないか。

嗅覚の良いことが、「神経質だ」と悪しざまに言われるようになったのは、ここ数年のことではないか。香り付き製品が登場してからだ。簡単に手に入る日用品によって、ヒトの価値観は一変してしまうものなのか。

嗅覚だけ特別扱いされてしまうのは、なぜなのか?

それは、自分が良いと思っている香りを、相手が良いと思ってくれないからなのか?
自分の好きなものを、すべての人が好きにならなければいけないのだろうか。

自分にとって良い香りだから、それが自分の身体に悪影響を与えるとは思えないのだろうか?
たとえばそれは、光ってきれいなものは、自分の体に害をなさないと思うのと同じではないのか。悪いものではないと思って知人に分けたら、それがトンデモナイ物質で入院みたいな、むかし海外であった事件のように(あくまで例え)。

おそらくは、抽象的なものを好むひとは、合成香料と香りカプセルの物質について知れば、この問題の深刻さ、恐ろしさを、了解するだろう。
だが、具体的な物やデータを確認しなければ、理解はするが納得はしない、というひともいる。そうしたひとは、家族や友人が香害に倒れない限り、リスクを評価しないだろう。自分自身が倒れるという現象が発生するにいたって、了解する。

マイクロカプセルに色がついていたら、そこかしこが変色するので、分かりやすいのだけどなあ。あるいは、何かのライトを当てたら浮かび上がるとか、何かの液につけたら色が変わるとか。でも、そんなことは望むべくもないわけで。

肉眼では見えないマイクロカプセルが「そこにある」ことを、ありありとイメージできるかどうか。
化学物質過敏症者の苦しみ、その予備軍の危機感を、推察できるかどうか。
ヒトの想像力が、試されているような気がする。

想像することなく使い続ける限り、衣服や自宅に、合成香料とカプセルの物質は蓄積していく。そしてある日突然、あなたの許容量を超える。

香りにもとめているものは、何なのか?

香り付き洗剤や柔軟剤に否定的なひとに対して、神経質だ、我慢しろ、と言うひと。
化学物質過敏症で苦しむひとのニュースや動画を見ても、心因性の疾患だ、と言うひと。使うのは個人の自由だと主張するひと。逆に、個人の自由だから臭くても言えない、と悩むひと。

香り付き製品を使うことは、他者の学業や仕事や健康よりも、優先されるべきだろうか。
香り付き製品が登場する前の生活に戻したり、あるいは、無香の製品に切り替えることは、それほどまでに苦痛を伴うものだろうか。

もし、自分の好きな日用品を使うことが他者の生命に先んじるとおもうひとがいるならば、そこには、自分の希望が優先されるべきだという強い自己主張があるのではないだろうか?

香り付き製品を使わないこと、ほかの無香の製品に変えることが、他者の健康よりも重大なことだと思うなら、特定の香りがなければ、生活に物足りなさを感じてしまうような状態になってはいないだろうか?

体を動かす仕事に就いていたりスポーツをしているなどで汗をかくために、自分の臭いが気になり、それを上書きするために(消すために、ではない)香り付き製品が必要なのだとしたら、そこには、自分の臭いが他者に与える影響を心配しすぎる気持ちが隠れてはいないだろうか?

あくまで推察だけれども、「一部の」洗剤ユーザー、化学物質過敏症自体を「ないもの」と考えているひと、香害問題の存在そのものを否定するひとの中には、そのような気持ちが、どこかにありはしないだろうか?
化学物質過敏症で苦しむひとの姿が、隠れていた前述の三つの感情を浮かび上がらせてしまい(自己愛や依存や恐怖というほど強いものではなくても)、しかし、それらの感情が自分の中にあるとは思わない。化学物質過敏症という病そのものを存在しないものとすれば、前提条件がなくなるわけだから、自分の中のそれらの感情も存在しないことになり、整合性がとれる。そのような気持ちの動きはないだろうか。あなたにはないかもしれない、でも、ほかのひとにはあるかもしれない。

他者の人生と、自分の「好きな日用品を使う」という希望を、てんびんにかけて、こころの中に分け入ってみても、個人の自由のほうが先んじるものなのだろうか。香りを包むマイクロカプセルを吸引するとしても、その断片が食物連鎖に組み込まれて、巡り巡って自分の口に入る可能性があるとしても、現時点での香りの楽しみの方が先んじるものだのだろうか?

それはそれで、ひとつの価値観、ひとつの処世術、自分の利益を優先する強靭な生き方だ。
ひょっとしたら、宇宙へ進出していくには、そうした生き方をできるひとのほうが向いているのかもしれないけれど。

簡単、迅速、安価に得られる、アイデンティティの罠

香害について知って、それでもなお香り付き洗剤や柔軟剤を使いたいひとがいるとしたら、そのひとにとって、香りとは何なのか。
香り付き洗剤や柔軟剤に、何をもとめているのだろう。その日用品の、何が重要なのだろう?

ひょっとしたら、それは、簡単に自分を表現できる道具なのだろうか?
数百円出して洗濯機にいれるだけで、香りという新しい属性が手に入る。
さらに、ブレンドすれば、自分だけの属性値が手に入る。ブレンドを変えるたび、ワンタイムの、属性値になる。
洗濯するだけで、その属性を自分に付加できる。

香り付き洗剤や柔軟剤が、ワンタイムのアイデンティティを、ラクして獲得できるアイテムと化していないだろうか?

香水は高価。香木は知識が必要。香道は、面倒だ。
ファッションなら服を買うお金が必要だし、選ぶのも面倒だし、コーディネートも簡単ではない。
資格にせよ職歴にせよ、友人にせよ、趣味にせよ、努力なしで手に入るものではない。それに、どれも、自分の属性として付加するまでには、時間がかかる。
だが、香りは、違う。自分という人間を表す属性のひとつが、いとも簡単に手に入る。数百円と数時間で。

もし、香り付き製品に、属性の獲得を期待しているひとがいるとしたら、その「もとめるもの」とは、他者の健康を奪い、他者の人生を潰してまで獲得しなければならないほど、貴重なものなのだろうか。

プログラミングが行き詰ったとき、システムがトラブルを起こしたとき、自分で調べずに質問したひとは、ググレカスと総攻撃を受けることがある。
だが、アイデンティティを見つけたいとき、自分で考えずに香り付き製品に頼ったひとは、とりあえず誰からも攻撃を受けることはない。軋轢を好まない、争いを避けたいひとたちは、遠慮する。臭い、と告げたくても我慢するからだ。それどころか、ドラッグストアの店員からは感謝される。メーカー側も大歓迎だ。

美人女優を起用した、ビジュアル戦略。香りをまとうことは、それまでとは違う自分になるための、ワンランク上の自分を表現するための、儀式のようにすら見える面がある。

たとえば。......生きるのがつらいとき、自分で考えるのも苦しくなって、他者に答えを求めるひとがいる。もし、その他者が宗教家である場合は、大歓迎される。
成功する宗教は、待たせない。打てば響くように、答えを与えてくれる。「すぐに、簡単に、答えを得たいひと」は、導いてくれるとおりに歩むだけで知者になれると錯覚してしまう。 わたしには、香り付き製品で得られる汎用的なアイデンティティは、インスタント禅のようなものに見えてしまう。歩んだ人生が醸し出す香り、記憶と結びつけられる香りによる、そのひと固有のアイデンティティ、とは違うもののように見える。

自分に付加する新たな属性は、自分で、自分の人生をbingって、見出していくしかないと、わたしはおもう。
喜び悲しみ哀れみ、苦しんで苦しみぬいて、考えて考え抜いて、獲得していくしかない。
自分のアイデンティティを固めていくには、無我夢中で、生きるしかない。
自分のための答えは、自分で見つけるしかない。誰かの人生を他のひとが生きることはできない。誰かのもとめる答えが、先人の答えと同じであるとは限らない。(たぶん、世の精神的リーダーたちは、一人称の答えしかないと知りながらも、皆の答えは同じ、答えはひとつ、と言うしかないのだろうとおもう。)
。。。。。。と、わたしは、おもう(もっとも、この考えもまた、他の人にあてはまるとは限らず、ひとそれぞれ、なのだけれど)

一度の洗濯で獲得できるような、イージーなアイデンティティは、服を脱げば失せるものでしかない。皮膚に染みつき、肺の奥に取り込まれても、自分自身の身に付いたものになりはしない。
それは、いっときの流行、児戯でしかない。ひととき、楽しむことはできるかもしれない。だが、ひとときの楽しみ以上のものになるだろうか。
他者の健康を奪ってよいほどの、飽きることのない、永続的な楽しみにはなりえないだろう。

自分という貴重な存在は、自分自身がもっと尊重すればいいのではないか。香りなんぞまとわなくても、ただひとり。

自分の属性は、市販の日用品などに頼らず、自分で獲得して、付加していくものではないだろうか。

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