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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

化学物質曝露から回復した経験者として ~嗅覚センサーを見直そう(6)~

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自分には何の症状もないから関係ない。軽微な症状だから、大丈夫だろう。
.....社会的な問題のいくつかは、ひとびとが無関心でいるあいだに進行していく。
解決できない事態になって、はじめて、コトの重大さに気づく。 それでは手遅れだ。

高度経済成長期の公害を知る世代として

我が国が高度成長期だったころ、工場の排水、煤煙、車の排ガスにより、環境は悪化していた。四日市ぜんそく、水俣病、イタイイタイ病、など、苦しんだひとびとの時間は戻らない。
今では、排出基準も定められ、環境はずいぶん良くなっている。

世代が代わり、かつての公害を知らない人が増えてきた。
また、年配者であっても、居住地域によっては、新聞やテレビで報道された以上のことを知らないひともいる。

わたしは、公害のひどかった時代を知っている世代の、ひとりだ。
重工業地帯で育った。化学物質曝露も経験している。
だから、この一連のブログを書いている。書かないわけにはいかぬ属性を持つからだ。

光化学スモッグで、屋外授業中断

重工業地帯の住民にとって、環境汚染による疾病は他人事ではなかった。明日は我が身。
もっとも顕著だったのは、大気汚染である。
大気は分けることができない。ここまでが工場の大気、ここは住宅街の大気、ここからは教育機関の大気、などと境界線を引くことができない。

小学生のころ、体育の授業が、しばしば中断された。原因は、光化学スモッグである。「オキシダント警報が発令されました、校庭にいる児童は、すぐに教室内に退避してください」という放送があったのだ。

工場排水による海洋汚染

中学生のころ、理科の教師から、とんでもない話を聞いた。
わたしが小学校低学年のころに友だちとよく遊びに行った河原。その川の水を、当時から継続的に調査していたというのだ。当時から基準値以上の水銀が含まれていたという。見た目には美しい流れに、水銀。ゾッとした。
印象が良いからといって、安全であるとは限らない。

その河口には、小さな魚の死骸が何十匹か浮いていた。海岸は、牡蠣殻で埋め尽くされていて、その上に、数十のシャコの死骸が転がっていた。
それでも、橋の上から釣り糸を垂れる人は多かった。ボラがよく釣れたのだ。煮付けにするつもりなのだろう、持ち帰る人も少なくなかった。

そのころからだ。「背骨の曲がった魚」が、頻繁に報じられるようになったのは。

当時は、上水道ではなく、地下水を利用している家庭も多かった。実家も、上水道に切り替わったのは、1970年代半ばである。それまで、水銀の検出された川の比較的近い地域に住みながら、地下水を利用していたことになる。
工場の地下水のくみ上げ過ぎからか、地盤が沈下していた。縁側の高さが年々低くなっていくことに、親が気づいた。家が沈み始めていた。舗装した道路に、直径30cm深さ20cmほどの穴が開き始め、その数は徐々に増えていった。わたしは、移転の算段を始めた。地震の際の液状化を懸念したからだ。

工場経営者、従業員。取引先、親会社、下請け、孫請け。運命共同体である。関係者が、自発的に、厳格な基準の策定と大幅な削減に乗り出すことは、難しかっただろう。

だが、研究者は違った。
工場排水による水質悪化に早くから警鐘を鳴らし、フィールドワークと地道な対話を重ねて、環境改善に尽力したひとびとがいる。
愛媛大学農学部名誉教授、脇本忠明氏の著作をAmazonに見つけた。
「私が変わります」が地球を守る―21世紀人間環境宣言 (TL人間学実践シリーズ)

愛媛大学は、今も、海洋汚染の研究で世界最先端を走っている。

愛媛大学 沿岸環境科学研究センター
海の仕組みと環境問題の発生メカニズムの基礎的研究、内分泌攪乱物質など有害化学物質による汚染の研究。(平成14年度「21世紀COEプログラム」、平成19~23年度「グローバルCOEプログラム」)、生物環境試料バンク(es-BANK)。

愛媛大学大学院農学研究科 附属環境先端技術センター
昭和40年代からPCBやダイオキシン等の環境汚染物質の分析法の開発で世界をリード、環境化学物質の分析・評価技術、対策技術の調査研究。

正確な知識のない住民による、リスクの過小評価

昭和40年代までは、まだ、トイレ水洗化の進んでいない地域が多かった。
自治会から、定期的に、スミチオンの原液が配布される。組長が区長に配り、区長が各家庭に配る。柄杓と漏斗で一升瓶に分ける。各家庭で希釈し、トイレに撒くのだ。説明書など、ない。口頭説明だ。正確に希釈されるはずがない。使い捨て手袋などない時代、ゴム手袋をつけるひともいれば、素手で作業するひともいる。誰もマスクはしない。
トイレに撒いて余った薬剤は、各家庭で保管していた。

実家は蟻の多い場所に立地し、キッチンの流し横の木に営巣されていた。白アリではなく、赤アリなのだから、ほかに方法はいくらでもあったろうに、母は、その穴にスミチオンを撒いたという。キッチンのシンク、洗い桶を置く傍に、だ。後年、それを知って愕然とした。
戦前生まれのひとは、学徒動員のために、学業を中断している。戦後、テレビは普及したが、インターネットなどなく、通信教育も限られていた時代、自ら情報を取得することは骨の折れる作業だった。化学物質の安全な取り扱いかたなんぞ知ったところで、給料や夕食の献立が変わるわけではない。危険な作業が、一般家庭で、あたりまえのように行われていた。

戦後生まれの世代でも、類似のことは起こりうる。
たとえ国公立の大卒者であってもだ。1979年に大学入試制度が変わるまで、文系進学者が、理数の知識をもとめられることはなかった。(サイエンスに関心があるか、自ら学ぶのでなければ)、町中の商店の棚に並んでいるのだから、それほど危険なものではないだろう、と安心して買いもとめてしまう。そして、自分なりの使いかたで大丈夫だろうと思ってしまうのだ。

リスクを過小評価するひとは、決められた用法用量を守らない。今では、洗剤、柔軟剤、ヘアケア製品、殺虫剤、防虫剤、除草剤など、身の回りには、新しい日用品があふれている。すべての商品の説明を読んで、安全性を比較して選択し、理解して使う、そんなことが不可能なほどに。

「安全な暮らし」は、気軽な行為、わずかな手違いで、簡単に崩れ去る。
化学物質のリスクを過小評価するひとは、斜め上の行動をとる。斜め上すぎて予測不可能で、危険な行動を阻止することはできない。安全性を後回しにするひとびとに、リスクを伝えることは難しい。

化学物質の影響を考えないひとは、都会にも、田舎にも、ひとしくいる。田舎の古い木造家屋であっても、放置されている家もあれば、防虫スプレーや白アリ駆除剤が蓄積している家もある。化学物質に反応する者が田舎に移住すれば解決する問題ではない。水や空気が、都会よりきれいであるのは事実だ。だが、環境と家は別モノだ。田舎なら、どこにでも住めるわけではない。移住に際して、親切心から、化学物質満載のリフォームをする可能性もある。

危険に慣れざるをえない、住民たち

わたしがエンジニアリング会社の電子事業部に勤務していたころ、機械設計部からお呼びがかかり、配管部材集計を手伝うことがあった。エルボやフランジといった部材を仕様別に分類して個数を積算していく仕事だ。まだCADのなかった時代、手作業で、図面の山をやっつけていく。
図面には、見るも恐ろしい化学記号が踊っている。配管の中をこの物質が流れていくのかとおもうと、背筋が寒くなる。工場内作業は危険と隣り合わせ。それが現実だ。
いくら安全に管理しようと、危険であることに変わりはない。いや、危険であるからこそ、安全な管理が必要なのだが。夜景がいくら美しかろうと、萌えの対象にするには厳しい怖さがある。

自転車で通勤していた。自転車通勤者は多かった。工場の広い敷地内を移動するのに便利だという理由からだ。
出勤途中、赤信号になり、自転車をとめる。目の前を、タンクローリーが通り過ぎていく。通勤ラッシュの連なる軽自動車に挟まれて、ゆっくりと移動していく。何が積載されているのだろう?と、図面に見た化学式を思い出して、打ち消す。もし、今、後続の車が運転を誤ったら、タンクローリーが横転したら、命はないなと思いつつ、信号を待つ。

ある日の夜中、就寝中に、地面から突き上げるような振動があった。
すわ地震!?と、飛び起きた。
だが、振動は、一回だけ。
直後、消防車のサイレンの音が。
工場爆発事故だ。
窓を開ける。炎や煙は見えない。もっとも近い工場まで3km。とりあえず避難の準備をする。サイレンとヘリの音以外は、静かだ。重工業地帯には、特殊な消火活動の設備がある。むしろ、工業都市以外で、倉庫火災などが発生した場合の方が、被害は拡大する。その点は安心できる。

火災はすぐに鎮火し、なにごともなく夜は明けた。ごく普通に出勤し、仕事をこなし、帰途、事故のあった工場から2km地点の、目貫通りを通った。
爆発の衝撃で、家電量販店のショーウィンドウのガラスが、木っ端みじんに割れて、道に散乱していた。
夜中だったのが幸いした。昼間だったら、買い物客、通行人、店員、多数のけが人が出ていただろう。

それでも、直接の被害者ではない市民は、なにごともなかったかのように、ガラス片を片付け、道を掃除して、日常を取り戻す。

ニンゲンは慣れる動物だ。いや、慣れるというよりも、腹をくくるしかないのかもしれない。そうしなければ、生きていけないから。

こうした「慣れ」は、この一連のブログで取り上げてきた、香りの問題でも同じだ。カエルのかまゆで状態である。
香りが充満していても、それに慣れなければ、生きていけない。そう思って、身体の方を香りに合わせるべく慣らして我慢しているうちに、重症化していく。辛い環境に、慣れてはいけない。耐えてはならないことに耐えることは、美徳ではない。

見知らぬ誰かの犠牲の上に成り立つ、物質的豊かさ

昭和の時代の製造業は、「3K」労働と呼ばれていた。きつい、汚い、危険、だ。現場は、過酷だ。

熟練の職人の多くは、なにがしか、身体に故障をかかえていた。炎天下の工場内は、サウナのように熱い。その中で、切断や溶接をする。そして、重量物を運ぶ。天井クレーンがあるとはいっても、人手で行う作業もままあるのだ。
頸椎や、肩や、腰にトラブルを抱え、定年にもなれば、ガタがくる。根治には手術しかない。だが、手術の成功率は高くはない、失敗すれば、後遺症は避けられない、手術しようかどうしようか、そうした悩みの声も聞いた。

3Kの職場からは若者が去っていく。後継者が育たない。技術や技能が継承されない。
職人は高齢化。年功序列の賃金形態だ。オイルショック。鉄冷えになる。経営陣は悩み始める。ベテランがいなくなると立ち行かなくなる。人件費削減のためのリストラはしたくない。作業の合理化で何とかならないか。

では、どうするか。 きつくて危険な作業の一部を、パソコンを使うデスクワークに置き換えれば、腰や肩を痛めた社員も働ける。ベテラン職人のノウハウを数値化してデータベース化していけば、ベテランが退職しても若い社員たちが引き継げる。
我が国の製造現場でCAD/CAMが普及した背景には、そうした事情があった。

重工業地帯では、公務員と商店主と医療関係者を除けば、技術者か技能者である。
タクシーを利用して、運転手さんと雑談をしていると、元工場勤務だったりする。工場内作業の、過酷な話を耳にする。どれだけ危険だったか。どれだけ暑かったか。身体を痛めて運転手に転向したという人もいた。

高度経済成長に湧く日本。それを支えたのは、製造現場でモノづくりに励む職人たち。交代勤務で工場を管理する作業員たち、だった。

物質的な豊かさ、経済発展は、危険で過酷な現場作業を担うひとびとの汗のうえに成立していた。繁栄は、自動的には、やってはこない。簡単に手に入るものではない。物質的豊かさを享受する側の人たちは、リスクを負いながら下支えしている人々の存在に気づきにくい。

わたしは今パソコンに向かっている。このパソコンの素材を製造する作業者さん、採掘する作業者さんは、わたしよりもはるかに危険できつい労働をしている。代わることはできない。じゃあ、代われ、と言われたら、二の足を踏む。どれほどたいへんな作業か、考えただけで、うずくまってしまう。 だが、想像することはできる。気づくことはできる。すべての人が、必要以上に心身に負担をかけない仕事で口を糊していける世界になるよう、自分に何かできることはないか、思いめぐらすことはできる。誰でも、どのような立場のひとでも、想像することはできるだろう。

工場は近代化し、人手は産業機械に置き換わり、安全性は増した。だが、昭和の時代よりも、ホワイト企業は増えただろうか? 健康を損なう物質は減っただろうか。作業員は危険物に触れずに済むようになっただろうか。残業せずとも生活していけるようになっただろうか。我々は、生きていく苦行から解放されただろうか?

樹脂の粉塵による鼻炎、鬼北町移住で完治

当時、会社に着くと、いちばんにしていたことは、リュックからタオルを引っ張りだして洗面所に駆け込むことだった。鏡を見ると、顔に黒いポツポツが付いている。排気ガスだ。顔を洗って拭く。タオルが灰色になる。
使い捨てマスクなど手に入らない。毎日、排ガスの中を通勤。鼻炎になる。

そのうえ、知らぬ間に、粉塵を吸い込んでしまっていた。
数年間、新素材の用途開発プロジェクトに出向していたことがある。試作品をつくる必要がある。わたしは技術調査や技術文書の作成や事務処理を担当していたので、実作業はハンダ付けしかしていない。だが、勤務場所には、各種加工機がある。専門職の人は、防塵マスクを装着して、MMA樹脂を切断したり、溶剤で接着する。ところが、我々がその場所でちょっとした打ち合わせをする際には、無防備だ。目には見えない粉塵が舞っている。
その後何年も、一年中ひどい鼻づまりに悩まされるようになった。

だが、その症状は、のちに四国の山奥、愛媛県北宇和郡鬼北町に移住して2年間暮らしただけで、完治したのだった。
わたしは、築100年の木造住宅を借りた。長く空き家になっていて、防虫処理もされていなかった。パソコンデスク含め家具はすべて木製、プラスティック製の備品は、ごくわずか。
車は、ほとんど、走っていない。スーパーに行かなければ、人の姿が見当たらない。事故防止の看板には、「タヌキ飛び出し注意」。
恐るべし鬼北町。きれいな空気と水と森のある町は、医療以上の力を持っていた。

チオウレアによる接触性皮膚炎、配置転換で完治

エンジニアリング会社勤務時代、最初は技術仕様書の編集を担当していた。
CADはまだない。すべて紙ベースだ。図面を引いてコピーして赤ペンを入れる。自分が担当するモデルの図面は、自分でコピーする。製図版の2倍くらいある回路図のコピーには、トナータイプではなく、ジアゾコピー機(青焼きともいう)を使っていた。職場は、換気や排気に十分配慮して建てられた自社ビルで、臭気は軽減されていた。だが、感光紙は。触れずにコピーすることなどできない。

1年ほど経ったころから、手の皮膚がただれ始めた。両手の指の皮膚はなくなった。包帯や綿の手袋を皮膚代わりにして、仕事を続けた。そのうち、顔の皮膚がただれた。ミイラ状態で皮膚科に駆け込んだ。
愛媛大学附属病院の医師が、パッチテストを行って、原因をつきとめた。ジアゾコピーの感光紙に反応した。だが、当時は、その感光紙に関する情報がなかった。ステロイドを山ほど使った。

大黒柱のわたしに、退職や転職という選択肢はなかった。残業は多く、家には寝るために帰るような生活。そのうえ、脳梗塞の父が退院して家で療養しているあいだは、夜中に、トイレ介助をもとめて母を起こす。わたしが手伝うわけではないが、目が覚める。睡眠負債が蓄積していく。待遇はとても良かったが、最低限の小遣い以外を家計に入れていたから、食事は質素で栄養も偏っていたとおもう。そんな状態で、免疫力が働くわけもない。悪化の一途をたどった。

幸運だったのは、勤務先が、ホワイト企業だったことだ。配置転換を考えてくれて、大企業の事務職への転職と、新規プロジェクトへの出向、2つの道を提示してくれた。迷わず後者を選んだ。出向して、ジアゾコピーの感光紙から離れると、皮膚が再生し始めた。
今でも、両手の中指の爪は、三分の一が欠損している。ジアゾコピーした図面を、引っ張り上げるときに、もっともよく接触した指だ。

かなり前、検索して、同じ症例を、見つけた。レストランの銀食器磨きで感作し、太陽光がそれをさらに悪化させた、というものだ。
「ジアゾコピーの感光紙」と「食器の銀磨き剤」は、何ら関係がない別モノのように見える。だが、両者に共通する物質がある。チオウレア(チオ尿素)だ。
財団法人化学物質評価研究機構 CERI有害性評価書 チオ尿素 Thiourea
このこともあって、わたしは、「多種化学物質過敏症」を「ありうる」と考える。アレルギーとは分けて考えるべきだとは知っている。それでも、なんとなく、共通項があるような気がしているのだ。「多種化学物質過敏症」の人が反応するモノは、一見、全く関係のない別のモノのように見える。そのため、何にでも反応する神経症状のように見えてしまう。だが、ひょっとしたら、それらは、全く別モノではないかもしれない。なにか、共通の物質が含まれている可能性はないのだろうか。

わたしが感作した物質、さいきんでは、環境省のサイトにも情報が掲載されている(環境省の参考資料「チオウレア)。
「ヒトへの影響」には、次のように記載されている。
本物質及び本物質の化合物の使用及び製造に関連した接触性皮膚炎の症例報告があり、多く はジアゾ感光紙及び他種類のコピー用紙の抗酸化剤として使用された場合であり、いくつかの症例で紫外線に対する感受性の増加(光接触皮膚炎)がみられた。

まさしくそのとおりだ。ジアゾコピーは、紫外線で焼く。光接触皮膚炎だけでなく、光線過敏に、輪をかける。当時、頬にシミができた。現在地に移転してきてから、真夏の直射日光を避けられない作業場で数年、シミが拡大した。できるだけ太陽光を避ける生活をしている。

成人基準で、乳幼児やペットへの影響を判断する愚

同じジアゾコピーを使っても、多くのひとは皮膚炎にならない。勤務先でも、同様の症例がないか、同業者をあたって調べてくれた。だが、同じ症例は見つからなかった。

なぜ、わたしは、皮膚炎を起こしたのか。

これはあくまで推測だが、あながち間違っていない推測だ。

わたしは生来、皮膚が弱かったそうだ。にもかかわらず、子どものころから、しばしば、自分のご飯を自分で用意して、鍋や食器も洗っていた。よく言えば、身辺自立していた。高校のころは弁当を作っていた時期もあった。小学校高学年のころからは、台所用合成洗剤が流行し始めたので、これを使った。すると、手の皮膚が荒れた。さまざまなハンドクリームを試した。
高校を卒業して一人暮らしを始めると、三食の自炊で手荒れはひどくなり、あかぎれも数十か所できて、指が曲がらないほどになった。漢方薬を試したり、総合病院の皮膚科で処方されたステロイドを試したが、一進一退だった。
それが就職して、朝はコーヒーだけ、昼は同僚たちと手作りパンを買ってランチ、夜はしばしば市販の弁当というように、洗剤を使う頻度が減ると、徐々に軽快していった。エンジニアリング会社に転職して、昼食も残業食も会社指定業者の弁当という日が増えると、ますます洗剤の使用量は減った。これにより、皮膚は再生していった。もっとも、ようやく治った皮膚が、今度は感光紙に触れることになったのだけれども。
ちなみに、前述のチオウレアは界面活性剤の原料でもある。

わたしが、感光紙に触れたのは、就職してからではない。
生まれた時から、家の中に、常に、ジアゾコピーで複写された図面の束があった。 父はエンジニアで、持ち帰り作業や自宅作業をすることがあったからだ。乳児のころは、父が仕事をする傍らのさぶとんの上に、寝かされていたそうだ。わたしが人生で最初に目にした絵は、絵本の挿絵ではなく、クレーンの図面にちがいなかった。
コピーミスをした感光紙は、メモ帳として使えるよう束ねられていた。三度の飯よりお絵描きの好きだったわたしは、これに落書きをして育った。つまり、乳児のときから、曝露し続けていたことになる。その蓄積が、長じてからの接触性皮膚炎の引き金になったとは考えられないか。

薬の用量を考えてみればわかる。大人と子どもでは処方が異なる。大人なら問題のない量の物質でも、子どもには影響が出る。 それは、香りや香りカプセルの物質でも、同じだろう。

乳幼児だけではない。室内飼いのペットたちも、だ。彼らは、香りや香りカプセルの付着した床やソファに身を横たえて暮らす。臭い、辛い、を飼い主に訴えられるだろうか?

大人たちは、特定化学物質の影響を、「自分に何も問題が生じていないから」と、安易に考えがちになる。
だが、成人には問題がなくとも、子どもやペットに後々影響の出る可能性は否定できない。

子どもの曝露リスクについての資料に、リンクしておく。胎児期、新生児期等、発達期の化学物質曝露の影響についての研究だ。ヒ素、ネオニコチノイド系農薬、リン系難燃剤の場合。
環境化学物質曝露と行動の発達(2019年2月28日、国立環境研究所ニュース/国環研ニュース 37巻)

キシレン(VOC)曝露による症状、1年で完治

接触性皮膚炎が治ってからは、鼻炎に悩まされながらも、新たな化学物質にさらされることはなかった。そして、鬼北町へ移住して2年、鼻炎は完治。その後現在地に移転した。
ところが、2016年に、ふたたび化学物質に曝露されることとなった。

コトの発端は、わたしが家事と介護と仕事の両立で、浴室の天井掃除が難しくなったため、外注先の清掃業者選定について、相方に相談したことだった。これを相方が早合点。芸予地震で崩れた脱衣場の壁をまだ修繕していなかったこともあり、大家さんにリフォームを要求、とんとん拍子に話が進んでしまった。
天井と壁の結構な面積を塗装することになり、わたしは、VOCの曝露を恐れた。水性塗料ならまだしも油性塗料なら有機溶剤を使う。在宅業務だから、ほぼ終日、晒される。2月上旬という厳寒期、開け放してのベイクアウトによる揮発は望めそうにもない。油性塗料の使用を阻止すべく、曝露のリスクを、ありとあらゆる方法で相方に伝えようとした。だが、理解を得る前に、工事当日を迎えてしまったのだ。

業者は、わたしの訴えを聞くと、できるだけVOCを避けられるようにと、浴室からわたしの作業場のフロアに通じる階段の上り口にベニヤ板を打ち付けたうえ、シートで塞いだ。 ところが、作業が始まるや、涙があふれて、とまらなくなった。鏡を見ると、ひどく充血している。そのうち、喉が苦しくなった。息が止まりそうな気道症状。
これはすぐにでも病院に行かなければと、診察券を引っ張り出した。階段の上り口に打ち付けられているベニヤを外してもらうには、時間がかかる。非常用の梯子を使えば、数分で駐車場に降りられる。だが、駐車場では溶剤と混ぜる作業が行われていて、室内以上にVOCが漂っている。階段と梯子のどちらを使うにしても、落涙で見えにくく、足元がおぼつかない。 動くと逆に転倒の危険があると判断し、バンダナをポットの湯で濡らして折りたたみ、パンデミック用の3Mのマスクの中にいれて装着した。目には、災害非常用のヘルメット付属のゴーグルを装着した。そして、頭から毛布にくるまって、作業の終了を待った。

作業は無事終了し、ベニヤも撤去された。
が、自室から一歩出ると、すさまじい刺激臭。水回りを使うには、息をとめて階段を駆け降り、浴室前の廊下を走る必要がある。これが非常に厳しく、前々回書いたクラトミックマスクをAmazonで購入、1カ月間、装着していた。
検索して、原因物質はVOC中のキシレンだと判明したので、キシレンを処理できる空気清浄機も探して購入。CERI 有害性評価書 キシレン Xylene)。浴室や廊下には、備長炭とゼオライト。厳寒の中、自室の窓は終日全開。

当然、浴室は使えない。時間的に温泉にも行けないため、ダイニングの隅に簡易浴槽をしつらえた。1カ月後、浴室を使えるようになった。今は、何の問題もなく使っている。
目の症状は1週間、喉の症状は1カ月、鼻の症状は1年で消えて、完治した。
ただし、治ったから万々歳というわけではない。変化の速いIT業界。逸失利益は大きい。
いや、この程度で済んでよかったのだ。救急搬送されることもなく、回復しているのだから。(作業者が曝露した例。事例1事例2事例3例4事例5事例6職場のあんぜんサイト労働災害事例

それにしても、だ。相方は、リフォーム後三日目から、何事もなかったように浴室を使っていたのである。臭いについても、全く平気なのだった。

わたしは、水と空気が汚染された町で育ち、乳児のときから化学物質が身近にあり、生活や仕事の中で触れ続けてきた。
一方、相方は、水と空気のきれいな鬼北町に住んでいた。仕事は事務で、化学物質には無縁だった。
体内に蓄積していた物質の量が違うのか、それとも、わたしが感作を獲得していただけなのか。

症状が出るかどうかは、遺伝や生育環境や職歴や食生活や体格などにより、異なる。
自分が大丈夫だから他の人も大丈夫とは限らない。

あきめない限り、軽快への希望はつづく

台所用合成洗剤によるひどい手湿疹とあかぎれは、料理をする頻度が激減したら、治った。
ジアゾコピーの感光紙による接触性皮膚炎は、配置転換で治った。顔と手の皮膚は再生した。
キシレン曝露による症状は、冬場で時間はかかったものの、キシレンが揮発したら、完治した。

これらはどれも、単一の化学物質によるものなので、多種化学物質過敏状態の人の参考にはならないかもしれない。
だが、ひとつ確かなことがある。完治を諦めたら、諦めた時点で治らなくなるということだ。
わたしは諦めたことがなかった。かといって、治ると信じていたわけでもない。「治るかどうか」ということ自体、考えなかったのだ。できた人間だから考えなかったのではなく、睡眠負債が大きすぎて常に眠かったからである。顧客や家族や親族や社会に対してしなければならないことは、山積みだ。目の前のことに、優先順位をつけて、ひとつずつ、実行していただけだ。

今日は、最低限の家事はした。数行の原稿を書いて、いくつかアイデアをメモした。それだけしかできなかった日についても、善しとするのだ。
自分に厳しい性質のひとは、自分を許す努力をしたほうがいい。そうしていけば、時間は過ぎ去り、身体の免疫機構が、助けてくれる。

「わたし」とは、あいまいなものだ。ここからここまでがわたし、という明確な境界はないにもかかわらず、昨日も今日も、そしてたぶん明日も、わたしはわたしを意識して名乗る。わたしは、わたしが感知できない細菌などから構成される物質の集合体だ。本社にいる社長が、地方の支社の社員たちを直接は管理せず、彼らに裁量権を与えているように、ヒトは自分の中のものたちの働きを信じて、任せればいい。そうした自分のなかで働く彼らに、「がんばってくれ、ふんばってくれ」とお願いすればいい。

自然治癒力を低く見積もってはならない。
回復を、諦めてはならない。

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