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親の記憶を残すこころみ。~防空壕について聞いてみた~

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私の母は平均寿命を超えて健在である。ただ、物忘れは徐々に増えている。記憶が薄れぬうちに、と、この1年、しばしば、私が生まれる前の話を聞き出そうと試みている。話は枝葉に飛び、自分史をつづるほどのインタビューには難しいものがあるが、思い出す・・・記憶の探索という行為が、認知症予防に多少は役立つかもしれない。できるだけ記憶を引き出したいものである。

先日、防空壕について質問してみた。

何年か前、南海地震対策のため、bingで「シェルター」を検索したら、地震シェルターに混じって核シェルターが引っかかり、それが防空壕のように見え、母の話によく出てくる防空壕の構造について、自分が何も知らないことに気付いたからだ。

一般家庭の防空壕とは、どのようなものだったのか。

終戦を迎える1~2年前から、四国にも戦闘機が頻繁に飛来するようになったという。

当時母は、高等女学校の学生。ただし、授業はなかった。学徒動員に駆り出されての軽作業をしていた。
その頃、祖父(母の父)が、住友化学に赴任することになり、社宅の建設を待って移転したため、新築の家で暮らし始めるや、防空壕に籠ることになってしまったという。
社宅は二階建てで部屋数が多く、水道や電気が何か所もある広い家、当然庭も広い。食糧難に備えて、祖父は、その庭に、南瓜やサツマイモなどを作っていたそうだ。
その庭の一角に、祖父は一人で、防空壕を掘ったという。
「たった一人で!」じいちゃん、すげーな。
(私は祖父を写真でしか知らない。私が1歳の時に亡くなっているのだ。)

私が以前から疑問に思っていたのは、技術の発達した現在でもトンネル工事での天井崩落事故は起こりうるのに、資材の不足していた当時、民家の急ごしらえの防空壕で、いかにして天井や壁を補強したのか、ということだった。
母の話を聞いて、納得した。
私は横穴タイプだと誤解していたのだ。一般的な民家の壕は、穴を掘ってから、一枚板の天井をかぶせるタイプだったという。それなら、天井が崩落することはない。

広さは、3~4畳ほど。高さは、大人がすこしかがんで入れるくらい。
入り口は傾斜していて、階段代わりの梯子がかけてあった。
その穴の上に、大きな木の板を渡し、土を被せ、南瓜を作っていたそうだ。上空からは、南瓜畑にしか見えないのである。
この構造では、(直撃はもちろんだが)、近くが爆撃されたら、ひとたまりもない。単に、無人の庭であって攻撃対象ではない、と欺くための方策、気休めであったのかもしれない。

中央には50~60cmの通路があり、両側に木の板をしつらえてあったという。片側は一家全員が座るベンチ、片側は棚。棚に置いていたのは、衣服を入れた「こおり(今でいえば、Fits)」3ケース、非常食と食器類。

当時の母の家族は、祖父、祖母、母(長女)、次男、次女、三男、三女(1歳)。母の兄(長男)は既に社会人(銀行員)で独立していたようだ。つまり最大で7人が籠れる広さだったということになる。

空襲警報が鳴ると、在宅の者は防空壕へ。ときには、食事時であり、炊いたご飯を釜ごと持ち込んで、壕の中で食事したという。 「若かったから、割と何でも平気で、土の壁の中でも、汚いとか思わずに食べていた」とのこと。
「何度も空襲警報を聞いていると慣れてしまって、そのうち、壕から出て、外を見に行ったりしてたわねえ」
「数km離れた場所に時限爆弾が落とされたときは、戦闘機が飛んでるのを見た」
その爆弾の落ちた跡は、大きな穴となり、今では池になっているそうだ。ツングースカの隕石のようなものだ。(先日聞いたときは時限爆弾だと言っていたのだが、その前に聞いたときは焼夷弾だと言っていた、どちらが事実なのかは不明)。

いやもう私からすれば、当時の母の行動はアリエナイ。壕から出て上空を眺めるとか、何をしとるねん母。家族を危険に巻き込む気か(母は今でも巻き込むタイプです...)。
昔の映画「インディペンデンス・デイ」で、エイリアンの飛来物体に、ビル屋上に上がって手を振り、命を落とす人たちが描かれているが、私の母は、(私とは真逆で!)、その主人公の友人たちと同じ、"石橋があるかどうかを確認する前に走り出す" タイプである。石橋を叩けよ母。戦時中であるからして平和ボケ、なんぞではない。リスクマネジメント意識の問題なのだ。

とはいっても、じゃあ自分自身はどうなのか?といえば、これまで何度か(南海地震と原発事故対策のため)堅牢な建物に移転を目論むも、家族にちょいと却下されては、あっさり引き下がる、ということを繰り返してきている。リスクマネジメントの観点からは、食い下がって説得しなければならないところだが。もっとも最近却下された "一目見て要塞のようだと感じた" 物件は、膝の悪い母ではエントランスの階段が上がれず、持ち運びスロープを設置しようにも車止めが邪魔をして勾配が10度以上になり、諦めるしかなかった、という理由はあるにせよ。

私は、戦時中のことを、想像するしかない。爆弾1個の何万分の一の規模の経験から考えてみる。
その昔、私が里でサラリーマンをしていたころ、しばしば市内の工場で爆発事故が起こっていた。夜中に家が大きく揺れて、すわ地震かと飛び起きるも、余震はなく、すぐに静まり返る。そのうち、消防車とヘリの音が聞こえてくるのだ。出勤時に目抜き通りを通ると、爆発地点から数km先の商店街のショーウィンドウのガラスが、衝撃で粉々になって道路に落ちていた。これが昼間の事故なら、多数の買い物客が重傷を負っていただろうと、背筋が寒くなったものだ。
水平距離にして数km地点の事故で、これである。水平ではなく垂直方向からの脅威となったときには。
それでも、諦めない方がいい。生きのびる努力は、しないよりはした方がいい。自助の精神がなければ、助けようとしてくれる他者を無用の危険にさらすことになるからだ。

母とその兄は、広島県福山市で生まれた。
戦争が始まり、祖父母は、川之江市(現・四国中央市、愛媛県と香川県の県境)で酒造・製紙業を営んでいた親族の強い説得によって、四国へ移住。瀬戸大橋もしまなみ海道もない時代である。ふたりの小さな子供を連れて船で渡った。そして、その後、広島市に原爆が投下された。

母たちが防空壕に駆け込む日々を過ごすうち、戦争はさらに激化。仕事のある祖父をのこして、一家は川之江市の親族宅に疎開した。母は、疎開先で、祖母(私からみれば曾祖母)と散歩中に、終戦を知ったという。掲示板の周りに人だかりがしていて、戦況についての情報が貼り出されていた。その場にいた人が、ラジオを皆に聴かせてくれた。それが玉音放送だったそうだ。

ネットが普及してたかだか20年、パソコンの普及から数えても30~40年だから、IT業界の就業者年齢は、他の業界よりも若いはず。そのITエンジニアの両親といえば、高齢でも団塊の世代、戦後生まれだろう。両親から直接戦争体験を聞けるITエンジニアは、多くはないのではないか。祖父母からは知ることができるかもしれない。
私はたまたま、この業界の者にしては年寄りである。そのうえ母が高齢出産での子である。したがって両親は昭和一桁であり、戦時中の様子を直接聞くことができる。さらに、最初からソフトウェア産業にたずさわっていたわけではなく、元は重厚長大系の人間である。親の記憶を傾聴し、自分の経験と照らし合わせて、書かねばならないことがあるのではないかという気がしている。

なぜ人は争うのか。
なぜ他者を支配したがる人たちが次々と現れるのか。
その理由は、教育やDNAや社会システムや倫理観を超えたところにある、ような気がしている。
考えがまとまったら、いつか書くかもしれない。

このような話題を、この時期に公開していいものかどうか、すこし迷ったが、親の記憶を残すというのが第一目的であるので、数日前に聞いた話を、忘れないうちにテキスト化しておく次第。

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