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ひらめきと病のあいだ ~過去の随筆(2005年12月7日)の再掲載~

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私の個人事業所の以前のWebサイトに掲載していた随筆(?)です。
今後メルマガに書く記事に関わる内容につき、転載します(ほぼ、ママ)。

※補足:メルマガ「日刊デジタルクリエイターズ」2014年5月26日配信分の記事も、あわせてお読みください。

ひらめきと病のあいだ ( 2005年12月7日

自閉症児生活支援ツールの共同研究開発を行っている大学のすぐ裏に、小さな個人病院がある。
この地に転居してきて数年、地元の情報に疎い私でも名前は聞いたことがあるくらいだから、この病院、有名であるに違いない。
地方紙に、その病院の医師が、患者と共著で本を出版したと載っていた。Amazonで購入してみた(*1)。

読んで、驚いた。
タイトルが「こころの病を生きる」なので、背を向ける向きもあろうが、一読の価値がある。
自分には無関係なキワモノとして捉えるのではなく、先入観を持たずにページを捲ってみれば、何か発見がある。そんな不思議な本である。

自閉症に関わっている立場からいえば、特に、成人の高機能自閉症者に、お薦めしたい。著者の医師が病者に対して語る言葉を読めば、定型の人たちがどのように社会というものを捉えているかが分かるはずだ。コミュニケーション能力を磨く上での参考になるのではないだろうか(*2)。

また、物書きの立場から見ても、書籍としての完成度が高いと思う。静謐な叙情性を湛えながら、文学的感性と論理的解説のデスマッチが繰り広げられる。その解説は、医学の専門知識の羅列ではない。深い思索を背景に、この社会に生きるためのノウハウと、臨床経験に裏打ちされた実践で役立つこころの持ちようを、具体的に伝えている。行間に体温が感じられる。

前振りが長くなった。このエッセイ、本の感想を書くのが主旨ではない。

本の中の一節を取り上げて、「発想」を業務の軸として口を糊している立場から、健常者と病者の境界、ひらめきと狂気の距離について、語ってみたい。

ここで例として取り上げる一節は、著者である佐野氏の見た幻覚の描写部分だ。
大学では窓口の人がヒモでつながった三角定規を食べていたり
仕事がら、文章をヴィジュアライズして読む癖のある私が、この一節を読んだ時に見えたのは、ビュッフェのようなタッチの絵だった。力強い直線でアウトラインで描かれた、平面的な絵だ。もし著者の佐野氏が画家であったなら、これは幻覚ではなく、素晴らしい作品のテーマになっていたことだろう。

もっと、別の角度から考えてみよう。生活のレベルに、視点を合わせてみる。
「ヒモでつながった三角定規」を食べることは、もちろん、出来ない。
では、「ヒモでつながった三角定規のようなもの」は食べられないだろうか。例えば、「伸びたチーズでつながった、ピザ」である。
さらに、歩を進めてみよう。「伸びたチーズでつながった、ピザ」を食べる状況を考える。つながっているのだから、見知らぬ人と食べるのはイヤである。家族や、仲間の集まりというシチュエーションは、ありふれている。では、合コンの定番、王様ゲームのポッキーの代わりに使うとどうなるか(*3)。
手にソースがべたべたと付くのは、女性からすれば、イヤだろう。洋服にトマト色のシミがつくなど、もってのほかだ。食べやすくするには、一切れのピザが曲がらないように小さくする、そして、乾燥させる、この2つの方法が考えられる。
ポテトチップで明らかなように、小さくして乾燥させることは、現在の食品加工技術では難しくはないはずだ。あとは、ヒモのようにつなげる方法だが、割けるチーズがある。実現可能性は、ゼロではない。
袋を開けると、伸びたチーズでつながった、ピザ菓子が出てくる。ただし、この菓子を使った遊び方の提案と、見せ方まで考えなければ「商品」にはならず、販促/広告宣伝/営業展開までフィックスしなければ「売れる商品」にはならない。

以上は、あくまで、説明用にひねり出した思考方法の一例にすぎない。
だが、もし、著者が製菓メーカの企画担当者であったなら、この幻覚を、幻覚として終わらせるのではなく、新商品のアイデアに転用できる可能性もあるということがお分かりいただけただろうか。

先のエッセイでも触れたように(注:以前のWebサイト内で本稿の前に掲載していた記事を指す)、重要なのは、データ以上に、その解釈と判断だ。
脳内に浮かぶ、雑多なデータの中に、「ヒモ」「つながる」「三角定規」「食べる」というオブジェクトがある時、それらのオブジェクトに強い意味を感じるのでなければ、日常生活に埋没している人はこれを「不要」なデータ、意味のないデータだと判断してしまう。

脳内に記憶されているデータの組み合わせは膨大な数にのぼる。
囲碁などと同じで、想起される組み合わせの中から、必要かどうかを瞬時に判断する能力が、発想力の正体だ(※注:これを書いた2005年の時点ではそう考えていた。現在は、発想力の源泉は、それひとつだけではないと考えている)。
日常の雑事や常識に囚われていると、脳内のデータのうち、日常生活に即利益になることは「必要」、日常生活に一見無関係なことは「不要」だと判断してしまう。それが職務上無関係なデータである場合も同様だ。
脳内に浮かぶ、雑多なデータの組み合わせの1つに、「ヒモでつながった三角定規を食べる」というイメージが含まれていても、これが「不要」なデータ、あってはならないデータだと判断されるや、瞬時に「ごみ箱」行きとなる。通常、「不要」と判断されたデータは、「ごみ箱」に捨てられたが最後、それっきりになる。
それゆえに、「必要」と判断されて残るデータはといえば、日常生活には役立ったとしても、それ以上にはなり得ないデータばかりである。

仕事のなかで発想が必要とされる時、問題の解決策を見つけたい時、いきなりアイデアを搾り出そうとすると、一度「不要」と判断されて、ごみ箱に捨てられたデータを、再走査する必要性が生じる。しかし、すくい上げたい目的のデータは、捨て去るべきジャンクデータの中に混在しているので、抽出は難しい。

日常的にアイデアを必要とする職業に就いている者は、想起される膨大な組み合わせのデータを、瞬時に分類している。不要であるように見えて、プールしておいた方がよいデータには、無意識のうちに、<必要>というメタデータを付けて保存しているかのようだ。
「発想力がある」あるいは「発想が必要とされる生活をしている」人は、逆に言えば、「取っておけば役立ちそうなデータを捨てきれない」脳の持ち主であって、頭の中は情報溜まりである。いきおい、日常生活に必要な情報のほうが埋もれて迷子になり、生活が下手になる
任意の組み合わせのデータを必要とするかどうかという判断基準は、職種や社会環境に依存する。フィルタリングの設定は、個人の業務内容や立場に依存する。
科学は、その判断基準や設定を解明することはできても、提供することはできない。メタデータを付けるのは、あくまで、私たち人間だ。

ただし、「任意の組み合わせが可能なデータの存在」という前提条件がなければ、必要か不要かといった判別処理自体が無意味である。
五感を満足させてくれる俗世の楽しみにのみ生きることを良しとする人は、前提条件となる、このデータ自体を持ちえないだろう。
それは、五感から得られるデータそのものではなく、自らの内部で関連付けられ、構成されるデータだからだ。自動的に、自発的に、生成されるデータである。

職業上の知識と技術を持って極めれば、それは、先のエッセイに書いたように(注:以前のWebサイト内で本稿の前に掲載していた記事を指す)、科学者の発見、開発者の発想、経営者の直感、プランナーの企画力、芸術家の着想、占術師の霊感となる。
だが、職務上の知識と経験と技術で正しく生かすことができなければ*4)、あるいは、不要なデータであるにも関わらず必要だという誤った判断をした場合は、誤った発見、先見性のない直感、見通しのないホラ吹き企画、インチキ占いとなる。

科学者や芸術家の中に狂気が潜むのは、このためである。
 狂気を発生させる機能自体が錆付いているか眠っている脳にはサプライズも訪れない。発見と、こころの病を生じさせる仕組みは同じである、と言っても過言ではないかもしれない。

「ひらめき」は、病を発生させるのと同じ脳の仕組みが作動した時に訪れる。
プログラマであれデザイナであれコピーライタであれ、どんな職種であっても、仕事に誠心誠意取り組んだことのある人なら経験しているはずだが、真に有意義で訴求力を持つアイデアや改善提案は、理詰めで考えて獲得するものではなく、考えて考えて考えつめた思考の空白の後に(*5)、向こうから訪れる。考えつめることによって、特定の脳内物質が過剰になり、「関連付け」を発生させる脳の機能が、一時的に作動するのではないだろうか。

クリエーティブな職種の者は、意識的に、自分の脳を特定の状態に追い込んで、発想を引き出した後、即座にクールダウンすることによって狂気に至る道を閉ざす、制御方法を会得している*6)。万が一クールダウンに失敗して暴走し続けたら、行き着く先が、狂気か自裁であることに、勘付いている人も多いであろう。デザイナに、料理や庭弄りやアウトドアといった、意識が外に向く趣味を持つ人が多かったり、絶妙なタイミングで煙草や珈琲に手を伸ばす人が多いのは、そのためだろうか。

科学は哲学に先行して、精神の解明をテーマとして進んでいる。
科学が、病者の肉体的な苦しみを軽減するために発展することは、素晴らしいと思う。そして、社会は、病者を、寛解した者を、受容し支援する方向に目を向けなければならない。

だが、もし、科学が、狂気を発生する処理を暴走させないように制御することではなく、発生する仕組み自体を機能させない、あるいは標準的な脳を生み出すことを目的とするなら、科学的発見には独創性が必要である場合が少なくないにもかかわらず、自らその独創性の首を絞める、という本末転倒なことになってしまいかねない。
そして社会が、有意義な発想を生むかもしれない脳を持つ人々を排除するなら(*7)、人々は楽しみを失い、争いは増え、混沌の中に投げ出されるだろう。人は皆「驚きたい」のであって、変化が好きである。

企業は次々と新商品や新サービスを世に送り出し、アーティストは作品を創り続け、科学者は発見し続ける。その行為は提供側に利益をもたらしたり、人々の物質的な生活を満たすのみならず、この社会に生きる人々の精神の崩落を防いでいる。
この社会は、平穏で変化のない日々に耐えられる人だけで構成されているわけではない。むしろ、健常であることを極めれば極めるほど、平穏で変化のない日々への耐性は下がるのではないだろうか。

苦痛は軽減され、暴力は抑制されなければならないだろう。
だが、人は、デザインされて生まれるのではなく、標準化の枠の中で育成されるのでもなく、あるがままに、存在する価値がある。

 

*1: 「こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡」
佐野 卓志(患者、2010年度 イーライリリー賞 受賞者)、三好 典彦(担当医)共著、中央法規出版 
執筆者が「嘘をつけない」当事者だからかもしれないが、小説や映画のような、感動を喚起しようとする作為がなく、言葉がひとすじに心に染み入る。三好医師の返信も、非常に慎重に言葉を選んで、紡いでおり、哲学書のような趣がある。原文の持ち味をそのまま生かした編集も素晴らしく、淡々と「生きる意味」を突きつけてくる。

*2:「定型発達者」という言葉の定義が曖昧であり誤解を招きそうだが、ここでは、社会適応や日常生活に、発達障碍が原因と思われるような大きな困難を抱えていない人という意味で使っている。

*3:断っておくが、私は合コンに参加したことはない。PROJECT KySS の相方がTV好きで「ロンドンハーツ」を好んで見ていることから、偶然、そういうゲームがあることを知ったにすぎない。

*4:独創的な関連性を持たせたデータが自生しても、職務上の知識と経験と技術がなければ、社会に有用なデータにはなりえない。 個々のオブジェクト間を独創的な関係で接続しやすい脳の傾向が、職務経験を深める前に強く出現したのでは、データの活用以前に、混乱を招くだけだろう。
そのような傾向の脳を持つ子供に対しては、学業成績に関わらず、いたずらに高等教育を強制するのではなく、中学あるいは高校卒業時点から実務を教え、頭だけでなく体や手を使う作業をさせ、早い段階で、自生的データを生かすノウハウを身に付けさせた方が、最悪の事態を招く可能性を抑えられるかもしれない。高等教育は、本人に学ぶ気があれば、脳の機能が安定した後、何歳からでも始められる。 親による、出立時期の正確な見極めと許可が、子の社会適応度を左右すると考える。

*5:この「空白」とは、麺を茹でる時の、「びっくり水」のようなものだ。

*6:昔は、発想を得たら、手作業で形にする必要があった。現在は、クリエーティヴな職業の者といえどもビジネス社会の中に生きているので、クライアントや外注先とのやり取りや見積作成作業などが派生する。それらの現実的な作業によって、制御方法を会得していなくても、自動的にクールダウンできる仕組みになっている。
ただし、パソコンに四六時中向かい、キーボードとマウス操作以外に手を使わず、ビジネスに関与していない、経営者とオペレータの中間的な立場にあって仕事オンリーの生活をしているクリエーターに対しては、社会はクールダウンの仕組みを提供しないので、意識的に休憩を取らなければ、暴走の危険性があるだろう。
また、ニートで引きこもって四六時中ネットサーフィンをしている者の脳は、外部からの働きかけがないので、クールダウンされ難いだろう。
私もクリエーター系の自営業だから、考えてみればずいぶん危険な仕事に就いてしまったのかもしれないが、家事だの高齢者の話相手だのと、四六時中、クールダウンされ続けていて、ヒートアップさせる間がない状況である。家族は、浮世の沼に引きずり込もうとするが、日常に埋没したらダメになる。
酒の好きな人なら、日常のレベルから意識を離すために、それに頼ることもあるのだろう。
しかし、アルコール類の摂取は、おそらく、脳を特定の状態に追い込む働きをするのと同時に、必要なデータをフィルタリングする機能を誤動作させそうだ。おそらく期待するほどの効果は得られないのではないだろうか。

*7:この世には、見聞きしたことのない病が多数ある。原因不明で病名の付いていない病もある。全人口から、身体的・精神的なあらゆる病気に罹患している人の数、後遺症を遺している人の数、障害者の数、介護の必要な高齢者の数、未成年者の数を引くと、定時間勤務をできる健常者に対して、労働困難な者の数が、あまりにも多いであろうことに驚かされる。しかも、その健常者の半数は女性で、その中の何割かは、育児や介護や配偶者の世話(家事分担に積極的な男性は半数に満たない)等をしていて、フルタイムでは働けない。
つまり、経済面を支援可能な人の数に対し、支援を必要とする人の数が、あまりにも多いのである。社会の大半が健常者で、病人や障害者は少数だと誤解している人が多いのではないかと思うが、実際は、支える側の人数が不足しているはずだ
私自身、長年、支援者と非支援者が「1対多」という関係のなかで、必死で踏ん張って支援してきている。
だが、そのような立場であってもなお、精神障害者に関しては、彼らの生活基盤を揺るがし、労働を余技なくさせるような社会体制が強化されないことを願う。精神障害者の特殊な脳の仕組みを健常者は持ち得ず、その苦しみを想像すれば持ちたいとも思わないのだから、その特殊性ゆえに自生するデータを生かし、社会に還元する方法を研究し、基本的な生活を保障すべきだろう。 労働力が必要であれば、(発達障害や精神障害や高次脳機能障害や身体障害を持たない、一部の依存を是とする価値観を持つ)頑強な若年無業者の、社会参加意識の獲得支援をこそ先行すべきである(気付きのないまま、就労対策だけ促進しても付け焼刃にしかならない)。

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