朽ちないデータ、という幻想 ~メルマガ連載記事の転載 (2013年1月28日配信分)
この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。
連載 「データ・デザインの地平」 第26回 朽ちないデータ、という幻想
技術進化からこぼれ落ちるデータ
1997年、Windows 95 対応の Microsoft Internet Explorer 4.0 Platform Preview 1(ベータ版)の時代、筆者は、Actve X 仲間の VB プログラマとコラボレーション・ユニットを結成し、Direct Animation コンテンツを制作していました。
Direct Animation は、Direct X の流れを汲む、マルチメディア機能を強化したコントロールで、VBScript で 制御することにより、オブジェクトの位置や形状を変化させることができるというものでした。
Direct Animation は、その後、XML 利用のインタラクティブな UI 実装技術である Choromeffects に受け継がれました(※1)。
XML で記述された XAML を Expression Blend から操作する Silverlight の萌芽は、90年代後半から既に垣間見ることができたのです。
しかしながら、Direct Animation は、OS やブラウザのバージョンアップに伴って徐々に動作しなくなりました。
手塩にかけたコンテンツも、いつかは眠りにつきます(※2)。データベースに登録された情報も同様です。
データが長期利用できるかどうかという問題は、少なからずプラットフォームに依存します。(※3)
XMLのような、OS やアプリケーションに依存することなく、将来にわたって利用できるよう設計されている仕様ですら、それに基づいて作成されたデータが未来永劫使用可能かといえば、完全な保証はありません。
実行環境だけでなく、ハードディスクにせよ、SSDにせよ、データを蓄積するメディアも変わるからです。
メディアが劣化してデータを読み出せなくなることもあります。
また、新しい技術で作られたメディアに、既存のデータを引っ越す作業が追い付かないこともあります(※4)。
計算機の性能が向上すればするほと、メディアの容量が増えれば増えるほど、ファイルサイズへの気配りは薄れ、引っ越すデータも肥大化し続けます。長期にわたり全てのデータを維持し続けることは困難です。
そして、データ作成者が病気のために廃業したり、亡くなった時には、メディアの中に残されたデータは、野ざらしになるでしょう。一人世帯が大幅に増加している現在、遺族の手によってデータ整理や HDD の廃棄が確実に実行されるとも思えません。
ネット上を彷徨い続けたり、サーバの片隅で忘れ去られ、ひっそりと消滅するデータも増えるでしょう。
デジタル・データの永続性は、現時点では、幻想にすぎません。
古い時代の書物や絵などの紙媒体が、長期保存に耐えているのは、じつに皮肉な話です。
重篤化する、記録メディア依存
しかしながら、もはや我々の生活の中から、記録用のメディアを消し去ることは不可能です。
なぜなら、記憶という作業を外部メディアに依存しているからです。
検索エンジン利用が日常的になり、ヒトは、データそのものよりもむしろ、データを読み出すために必要な分類や日付などのメタデータを記憶するようになりつつあります。もはや記憶の主体は外部メディアであり、ヒトの記憶はデータを探すためのトリガーにすぎません。PC やスマホが失われたら、近々のスケジュールさえ思い出せない人も少なくないことでしょう。
このまま外部メディアへの依存を強めると、我々の脳は、廃用症候群のように、メタデータを記憶することすら億劫になり、脳機能を直接補完する記憶装置を切望するようになるかもしれません。
それは、決して荒唐無稽な話ではありません。
薬剤によるエンハンスメントの延長線上で十分にありうることです。現在では、物忘れを改善したり集中力を高めたりする、マイナスをゼロに近づける(社会生活を送りやすくする)ための薬剤もあるのですから、ゼロをプラスにする脳ドーピング目的の薬剤が議論の的になるのも時間の問題でしょう(※5)。
さらには、脳の一部を置き換えて記憶機能を強化するパーツや、まるでメモリを増設するかのごとく追加できる記憶装置が登場するかもしれません。それらは、装着に外科的処置を伴うものかもしれませんし、血流に乗って運ばれて特定の位置にセットされるものかもしれません。あるいは(セキュリティ上の情報については)遠隔地にメディアをおいて通信し合うものになるかもしれません。
そして、その装置は、「無機質で冷たい機器」ではなく、再生医療に基づく、記憶の主体であるヒトから生成される有機的なものとなっていくのではないかと考えられます。
その記憶装置とは、ヒトがプログラミングして命令を与えなければ、自らの「意思」では何も実行できない「機械」ではありません。ヒトを動力源とし、ヒトの中にあるパラメータに基づいて自動処理を実行する、有機的な記憶装置です。
データを記憶しているヒトが生きている限り、データは維持されます。ヒトが亡くなったときにはデータを吸い上げる機器も登場するでしょう。
脳エンハンスメントが仕掛けるサバイバル
そのような新しいメディアに対する人々の反応は、千差万別になると考えられます。
装置の使用を拒否し、生まれもった自身の脳で生きてゆく決意をする人々(※6)。受け入れようとはするものの、拒絶反応を起こして泣く泣く諦める人々。そして、問題なく受容し、能力を強化する人々。
この3つに分かれていくでしょう。
ありのままの自分にこだわる人もいれば、たとえ重篤な副作用の懸念があっても、試験結果や業務成績の勝敗を優先する人もいます。増強された記憶力を持つことが社会のデフォルトになってしまうと、抵抗していた人々も、一歩を踏み出さざるをえない状況に追い込まれてしまいます。
新しいメディアを規制の対象にしようとしても、短期間でユーザーが増加すれば法整備は後手にまわるでしょう。
ユーザーの細胞から生成された記憶装置が、ユーザー自身の脳と連携するとき、ヒトとメディアの境界は実に曖昧になります。
さらに、そのメディアが、出生前から「成長にしたがって強化されるように」遺伝子レベルで操作されるようになったなら、増強の可能性ある記憶力を持って生まれた子はヒトでしょうか、それとも、「ヒトの形をした有機コンピューター」でしょうか。
ロジャー・ペンローズが推測する、プラトン的世界にある数学的真理への気付き(Awareness)をもたらす人の意識を生じさせる、そのような役割を果たす器官が生成可能となった暁には(※7)、ヒトと計算機の違いを見出すことすら難しくなるにちがいありません。マン・マシン・インタフェースの、マン・マシンが一体化した時代には、「インタフェース」という概念自体がなくなることでしょう。
記憶に執着する心、記憶をクリアしたい心
ただし、記憶力を増強したところで、それによって人間の幸福度も増すわけではありません。むしろ、記憶力を増強されたヒトよりも、忘れっぽいヒトのほうが幸せかもしれません。
数十年前には文章や写真でしか遺せなかった思い出も、いまや簡単に YouTube に遺すことができます。
ビデオの中にしかないデータが失われそうになるとき、我々は、何の感情の動きも伴わずにそれを看過できるでしょうか。データが失われることは、記憶が失われることに等しい重大事のように感じられるのではないでしょうか。
すでに我々は、自らの力だけでは記憶を維持できなくなっています。記憶装置を、設計し、その原料を採掘し、製造し、組み立て、配送し、サポートする人たちがいなければ、記憶を維持することは困難です。
近しい人の生命が失われそうになったときには医療に頼るように、データが失われそうになった時には、藁にもすがる思いで、データ復旧センターに頼りたくなるのではないでしょうか。
ヒトとメディアの境界なき「マン・マシン」は、記憶に感情を紐づけ、情報への「執着心」を獲得するでしょう。そして、自分の力だけではデータを維持できないことに苛立ち、情報が失われる不安に常時さいなまれるようになるでしょう。
記憶力に優れた「マン・マシン」は、辛い記憶の定着に悩み、情報をクリアすることを望むようになります。
たとえば、過去に傷つけられたマン・マシンは、脳のエンハンスメントによってある日突然聖人君子になった加害者と向き合う時、強まった記憶力をむしろ苦痛に感じるでしょう。
記憶力増強のメリットと、不安や払しょくできない記憶というデメリットのどちらを優先するかは、ユーザーによって異なります。
未来のカウンセリングルームは、2種類の希望を持つ患者で混雑しています。
そこは、記憶を回復したいマン・マシンと、記憶を消去したいマン・マシンが、せめぎあう場所です。
そのうちの何人かはエンハンスメントによって生まれ変わった加害者で、何人かは逆エンハンスメントを希望する被害者かもしれません。
我々に「永遠の記憶」は必要でしょうか、それとも...?
※1 Choromeffectsの概要については、過去の筆者ページを参照してください。
※2 筆者だけでなく、Flash や SVG のクリエーターの皆さんも経験していることでしょう。コンテンツとは、農作物のようなものです。農作物が身体を作るように、コンテンツは脳内の記憶とニューロンを作るものであり、消費財です。消費財ですから、ユーザーに取り込まれた時点で、生産者の役目は終わりなのです。
※3 量子コンピュータのように、計算機の概念が根底から覆る技術進化も考えられます。
※4 使われる可能性の薄いデータが、社会から消えていくことにより、データ爆発に一定の効果はあるでしょう。一方で、直接市場経済に影響しない、文化的価値を持つデータの失われるリスクがあります。
※5 脳に作用する薬剤が、医療機関を通さず入手できる、サプリメント並みに手軽なものになってしまうと、抵抗感なく試すヒトは少なからずいると思われます。
※6 筆者の楽曲「Change The Brain」では、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を常用している男が釣りメール中のリンク先を開いてしまい、オーダーメイドの記憶メディアの購入を勧められて困惑する場面があります。脳の一部(たとえば海馬)を交換するか、そのままの自分で一生を終えるかという問題は、歌の中だけの非現実的な話ではなくなるでしょう。
※7 ロジャー・ペンローズ著「皇帝の新しい心」「心の影 Ⅰ Ⅱ」林一訳、みすず書房
「データ・デザインの地平」バック・ナンバー
第1回 UXデザインは、どこへ向かうのか? (2010/12/20) ~ 第25回 住環境が変える、ハードウェアの形 (2012/12/17)