死刑制度
「最高裁が上告棄却 元少年の死刑確定へ」などで報じられている通り、光市母子殺害事件の被告の死刑が確定したようです。この事件が悲惨なものであることに異を唱えるつもりはありませんが、女子高生コンクリート詰め殺人事件の主犯は18歳(当時)で死刑を免れています(求刑も無期、判決は懲役20年で出所済)。計画性や反省の情といった事情が影響するにせよ、当時伝えられた殺人の残虐性を思うと割り切れぬものを感じます。
この事件に関わらず、死刑制度そのものについての是非はしばしば議論になります。CDレンタルやタクシー自由化のように日本だけが特異な制度をとっているものと違い、死刑は世界的にも賛否が分かれています。これは、どちらの立場をとるにせよ長期にわたって議論され続けても一方的な結果が出るものではないということです。まして“論破”などできないという認識を持つ必要があります。
私の大学時代に(たしか社会学の)授業で死刑の是非について取り上げられたことがあります。そのときのテキストは「死刑囚の記録」という本でした。この本は、実際の死刑囚のインタビューなどをもとに死刑を廃止すべきという論調でまとめられています。しかし、私は、この本を読んで、むしろ死刑に賛成するようになりました。
■抑止力として
「死刑囚の記録」では、死刑があることで殺人をためらうことはなかったとか、死刑があることで自首をためらったといった死刑制度による弊害を挙げています。しかし、死刑囚とは死刑制度による抑止力が効かなかった人たちなのですから、彼らに話を聞いても抑止力がないという答えが返ってくるのは当然です。死刑による抑止力が働いた(つまり、何もしていない)人たちにインタビューすることはできません。このように死刑廃止を主張する根拠だけが一方的に示されているように感じたのが、この本への疑問でした。
昨年、ノルウェーで痛ましい連続テロ事件がありましたが、銃を乱射した大量殺人の犯人が、警察が踏み込んだときにはあっさり投降したと報じられました。これは抵抗すると銃殺されるおそれがあるのに対し、捕まってもノルウェーでは死刑になることはないためだと推察されました。結局、犯人は死刑どころか精神鑑定の結果、責任能力を持たないと診断されています(現在は二度目の鑑定を行うことが決まっているそうです)。
そもそも死刑になるのは、誰かを殺した場合だけです。殺人事件は年間1,300件程度(認知件数、未遂を含む)の発生率ですが、検挙率95%という中で死刑になる割合は決して高くはありません。よほど悪質な殺人だけに死刑が適用されているのでしょう。
年 | 殺人事件の 認知件数 | 死刑確定者数 | 死刑執行者数 |
---|---|---|---|
2004 | 1,508 | 14 | 2 |
2005 | 1,458 | 11 | 1 |
2006 | 1,361 | 21 | 4 |
2007 | 1,243 | 23 | 9 |
2008 | 1,341 | 10 | 15 |
※法務省「犯罪白書」、「死刑確定者数(PDF)」より。
※注 認知件数、死刑確定、死刑執行は、同じ年で連動するわけではありません。
ほとんどの人にとって、死刑はもちろん、殺人ですら“身近なもの”ではないでしょう。ときどき「もし、あなたが冤罪で死刑になったらどうしますか?」という人がいますが、現実的な可能性は宝くじを当てるより低いものです。ましてや、自分が殺人を犯したら、あるいは死刑になったらと考えてみることも普通はありません。死刑の抑止力が有意の数字としてはあらわれていないと言われることもありますが、傾向を特定できるほどの事件がないのが現実です。
また、死刑廃止論を唱えていた人が家族を殺されて「やはり死刑は必要」と言い始めたのを見た覚えがあります。ノルウェーでは、連続テロ事件を受けて死刑制度の見直しも議論されていると伝えられたこともありました。死刑があっても、この犯人が大量殺人を行っていたかどうかはわかりません。
もし、死刑制度を廃止した場合、「死刑がなくなったから殺人を犯した」という人が出てこないとも限りません。「そんな可能性はない」と言って廃止論を主張している人がいるとしたら、それはリスクの高いことです。むしろ、そうした人が出てきた場合でも、「それでも廃止は正しかった」と世間を納得させなければなりません。福島原子力発電所事故の報道などを見る限り、それは難しいように思います。
■冤罪の可能性
死刑廃止の大きな理由となっているのは、冤罪の可能性を排除できないことです。人は間違えるものです。間違った判断で死刑が適用されてしまったら取り返しがつかない、というのは死刑廃止論の強力な後ろ盾となります。社会派の傑作『それでもボクはやってない』もありますし、元検察官の人が「冤罪は人々が思うよりも多いだろう」と書いていたこともあります。さらに、死刑が確定した後、再審で無罪になった事件などもあります。
本来、冤罪はあってはならないことです。「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の大原則は、すべての犯罪者を罰するために十分な証拠を用意すべきということではなく、たとえ犯罪者を罰することができなくなっても無実の者に罰を与えてはならない、ということです。つまり、間違えるにしても罰を与えない方に間違えるというフェイルセーフの仕組みだということです。
懲役刑にしても終身刑にしても、冤罪は起きてはならないことです。懲役刑であっても、失われた時間の取り返しがつくわけではありません。冤罪を防止するために、取調べの可視化や弁護人の立会いなどできることはありますし、私はこうした対策は進めるべきだと考えています。その意味で「冤罪の可能性があるから死刑は廃止すべき」ではなく「死刑を含めて冤罪を防止する対策をとるべき」と考えています。
■遺族感情
一般論として、刑罰に被害者感情をどこまで考慮すべきか、という問題があります。死刑の場合は、被害者は殺されているので遺族感情が問題になります。実のところ、私は被害者や遺族の感情はあまり考慮すべきではないと考えています。厳罰化に反対したり死刑廃止論を唱える人々、あるいは家族のいない人々が、犯罪のターゲットになりやすくなることは好ましくないためです。被害者側に、犯人に対する情状酌量の意向があるなら、ある程度は汲み入れてもよいでしょうが、本来は犯罪者の行為こそを評価した上で刑罰を与えるべきだと考えます。
最初に書いた通り、死刑の存置・廃止は、どちらの側にも世界の潮流と言い切れる状態ではありません(そもそも世界の潮流を気にする人は、CD レンタルやタクシー自由化といった日本固有の制度にも反対すべきでしょう)。あるいは、死刑廃止が世界の潮流だとしても、死刑を存置している日本の治安が良いことを考えれば、日本で死刑廃止を進めるのは困難ではないかと思います。