著作権は誰のものか
著作者のものです。
……このところ結論を最後に書くことが多いので、今回は冒頭に書いてみましたが、これでは身も蓋もありませんね^_^; さて、本題に入る前にやや長い前置きがあります。まず、そもそも著作権法が何を目的としているかを思い起こしてみましょう。これは第一条に明記されています。すなわち、
この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
ということです。ここで日本語は素直に読みましょう。「公正な利用に留意」しつつ、「著作者等の権利の保護を図ることをもって(=によって)」文化の発展に寄与することが目的なのです。つまり、それまで明示的に保護されていなかった著作権を保護することが目的です。何が“公正”な利用であるのかを論じはじめると宗教論争になりそうですが、文化を発展させるために「利用を促進する」ことは著作権法の目的ではありません。どこかにそう書いてあったとしても、それは著作権法ではありません。
もうひとつ、文化の発展のためには著作物を無料にして広く利用を促進すべきという“意見”がありますが、これは“事実”ではありません。お金がかかっていなくても文化的価値の高いものがある、あるいは(誰かの)創作活動のモチベーションにお金は関係ないという話もあるでしょう。18億ドルという空前の興行収入を生んだ映画『タイタニック』で、キャメロン監督は膨らむ制作費を映画会社に受け入れてもらうため、興行収入の歩合を放棄したのだそうです。自分自身の利益に直結しなくても、よりよい音楽のために優れた楽器や設備の整ったスタジオを使うこと、よりよい映画のために多額の資金を投入すること、といった目的を考えれば、著作物を生み出すための資金は多い方が良いとさえ言えます。『美味しんぼ』という漫画の「もてなしの心」という回では、誰にも喜ばれる(最高の)料理というテーマを主人公が曲解して、庶民的な素材ですませてしまう(ライバルはお金も手間も惜しまず最高の料理を出してくるので当然負ける)という話があります。創作活動において、お金の話を“非文化的”とみなしてしまうのは、“非現実的”であると言えます。
本題に戻ります。もともと“著作”という言葉があらわす書物の著作権は、執筆者(つまり著作者)に帰属します。契約で出版社との独占出版権を結んだり(出版契約)、色々なメディアで露出したりすることはあるでしょうが、著作権が著作者に帰属するというのはわかりやすい形態です。このケースでは、著作権法の規定にのっとり、保護期間は「著作者の死後50年」となります。なお、契約などによって組織や会社が著作者となる場合もあるでしょうが、以後、とくに“通常”という表現を使わなくても、一般的な場合を指します。これは漫画なども同じです。漫画の場合、原画が出版社に預けられることも多いようですが、著作権そのものは漫画家に帰属します(だから漫画家は自分でアシスタントを雇う)。この分かりやすい理屈をもとにして、著作権保護期間の延長を訴えるのも、個人の著作者あるいはその集まりと言うことが多いようです。
音楽の場合は、どうでしょう。曲(メロディ)の著作権は作曲家に、詩(言葉)の著作権は作詞家にありますが、音楽配信の対象になっているもの、あるいは P2P ソフトによる楽曲交換で問題になるのは、実際にレコード(CD)として制作された原盤(マスター)です。レコード会社は、楽譜や詩集を売っているのではなく、曲と詩に対して編曲させたり、スタジオを用意して演奏家に演奏させたり、さまざまな工程を実施することで原盤を制作します。そして、この原盤権(著作隣接権の一種)は、レコード会社が保有することが多いようです。ただし、wikipedia によればジャニーズ事務所は所属歌手の原盤権を保有しているようですし、レイ・チャールズを扱った映画『レイ』の中ではレーベル移籍の際に原盤権をレイ・チャールズ自身が保有する契約が紹介されています。誰が保有するかは力関係で決まるのでしょうが、重要なのは曲や詩ではなくレコードに収録された音源(原盤)を扱うには原盤権保有者の許諾が必要だということです。「音楽配信の自由化」という活動があるとしたら、これはアーティスト(作曲家や作詞家)に向けても意味がなく原盤権を所有する企業に言わなければなりません。
映画はどうでしょうか。これは逆の意味でわかりやすいでしょう。自主制作映画のようなものでなければ、大手の映画会社が制作する映画の著作権は制作者(プロデューサ)が保有します。「宇宙戦艦ヤマト」の著作権裁判でも、作画監督にすぎない松本零士氏の訴えは棄却され、制作者である西崎義展氏に著作権が認められています(これは後日和解)。最近、映画監督が著作権を求める活動をしているそうですが、(あえて言うならリスクを負って)制作費を出したところに、その成果としての著作権も帰属するというのが一般的です。映画監督も俳優も、その他のスタッフも、映画という著作物を生み出すために雇われているという立場に過ぎないわけです。テレビドラマなども、演出家や脚本家ではなくテレビ会社や制作会社が著作権を持つのが一般的でしょう。
著作権の保護というのは、こと音楽や映像については、個人よりもメディア企業のビジネスにとって重要なのです。ちなみに、保護期間の延長は個人の場合、死後の年数ですが、法人(団体)の場合は公開日から起算されるため、個人の場合よりも延長の効果が大きくなります。個人の余命が40年の場合、保護期間を50年から70年にすることは40+50=90年から40+70=110年(約2割増)になりますが、法人の場合は直接50年から70年(4割増)になるからです。
さて、改めて申し上げるまでもなく私は理屈屋です。ここで池田信夫氏のように「文化発展のために、企業優位はやめて著作権の保護を制限しよう」とは言いません。映画制作の創作意欲は、映画監督や脚本家だけでなく、映画会社にも必要だからです。映画監督の創作意欲は、簡略化すれば映画会社が出す資金や報酬の条件によって引き上げればよいですし、脚本家や出演者もそうでしょう(ここでケチると色々問題が出るのですが、これは別の機会に) 私は、たんに「長すぎる」という感覚的理由から保護期間の延長には反対ですが、メディア企業のビジネスをおざなりにしてまで保護を制限すべきとは思っていません。先に述べたとおり、まず既得権を安易に破壊すべきと考えていませんし、何より、こうした考え方はメディア企業自身が受け入れないでしょう(当たり前ですが)。
メディア企業に音楽や映像の自由な配信を認めさせるには、空論に近い“あるべき論”ではなくビジネスとして受け入れられる提案が必要です。企業にとって著作権(著作隣接権)はビジネスの維持・拡大に必要な既得権だからです。(この続きは、改めて)