「既得権は破壊すべきもの」か?
学生の頃なので20年くらい前ですが、何の話題だったか「変化を妨害する既得権なんて破壊してしまえ」と(若気の至りで)話していたら、当時の先輩に「既得権は資本主義の基本だから、ちゃんと経済学やっている人にバカにされるよ」と言われたことがあります。これは、なかなか新鮮な指摘でした。
世の中には色々な既得権があります。憲法で定められた財産権、教育を受ける権利、参政権などが否定されることはまずありませんが、他にも、よく話題になる著作権がありますし、特許権もあります。しかし、「時代に合わない」「変化の妨げ」「行き過ぎ」など、さまざまな理由で“既得権”は危機にさらされています。ほんとうにこうした理由で既得権を破壊してしまってよいのでしょうか。
誰かの生活やビジネスは、既存の権利に基づいて成り立っています。それが個人であろうと会社・組織であろうと、その支えとなっているものを守ろうとするのは当然のことです。(上記の私がそうだったわけですが)「既得権を破壊せよ」という人は、たいてい自分が持っていない(あるいは自分には要らない)権利を指しているものですが、他人の権利だけを否定するのはエゴというものでしょう。たとえば、特許権は「発明」を一定期間独占的に使用できる権利ですが、独占による“弊害”を理由にこれを排除してしまうのでは、発明に対するモチベーションを下げるという別の弊害が生まれます。実際、特許のような権利を認めないことは、大企業にこそ有利に働きます(大企業は真似した上で、スケールメリットを活かしやすいからです)。それでいいのでしょうか。
毎度、うろ覚えで恐縮ですが、以前テレビで見たレポートにこんなものがありました。外車の輸入に関して、たしか「安全基準の違い」か何かを理由に、生産国での破壊検査を認めず、国内基準で検査(破壊)を要求するようになったというものです。大量の車に取り扱う正規の販売代理店ならともかく、小規模な並行輸入業者は輸入車を扱えなくなります(そうした締め出しが目的だったのかもしれません)。しかし、そうした大手の販売代理店を持たない車種について、ある業者は自ら破壊検査をすることで、独占的に輸入が可能になると考え、自ら車一台分の費用を負担して破壊検査を行いました・・・が、しばらくして、大きな販売代理店を持たない自動車メーカー側からのクレームによって、この縛りは撤回されてしまいました。販売の自由度が回復したのはよいことかもしれませんが、この業者にとってはやりきれない撤回だったはずです。
さて、既得権を破壊せずに、時代に合う新たなルールを作り出すことはできないのでしょうか。必ずしも、そんなことはありません。その既得権を無意味にしてしまうような新たな活動を起こせばよいのです。これは「既得権を破壊しろ」と言うよりも大変なことかもしれませんが、誰かの既得権を踏みにじって変化を起こそうとするより、ずっとまとも(かつ効果的)です。
かつて、IBM は PC 互換機の普及に伴うライセンス料を高めようと MCA(Micro Channel Architecture)というバスアーキテクチャを作り上げました。しかし、互換機メーカーはこれを採用せず、協力して EISA という独自の規格を作り上げました。私は根拠の無い“あるべき論”語っているという理由で、昔から R.Stallman が好きではないのですが、彼が既存の商用アプリケーションの要らない世界を目指して(既存ソフトの権利を侵害するのではなく)自らの力で OS などのソフトウェアを作ろうとした姿勢は立派だと思っています。
音楽著作権についても、以前の栗原さんのエントリのコメントで取り上げられた平沢進氏や佐野元春氏の活動があります。これは、既存のルールを破壊するのではなく、新たなルールを生み出す行動だと評価できます。クリエイティブコモンズも、著作権の侵害ではなく、前向きな創作活動です。こうした活動が注目を集め、(宗教的な“あるべき論”ではなく)よい選択だという認識がアーティストの間に広まっていけば、強権を発動しなくても既得権団体の価値は自然に失われていくでしょう。そして、そうした変化が起こり、既得権団体が焦って楽曲配信の手法を制限しようとしたら、こう言いましょう。「配信手法の選択の自由は、彼らの既得権である」と。