秋の夜長に五七五の宇宙へ 斉唱―亀割潔句集
贔屓の噺家の落語会で時折りご一緒させていただいている方から、先日「句集を出しました」と本をいただきました。句会に参加されていることは知っていましたが、まさか句集をいただけるとはとっても嬉しいです。ありがとうございます。
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俳句とか和歌とか好きなんですよねえ。短い言葉の組み合わせの中に、何千何万の文字を綴っても書き切れない思いが凝縮されていて、日本人で良かったと思わせてくれます。特に俳句は、五七五のたった17文字。おまけに季語を入れなきゃいれないし、切れ字も入れたりすると、自分の言葉は10文字くらいですよねえ。いかに言葉選びとその並びと組み合わせで読み手に印象を残すかが腕の見せどころです。
亀割 潔さんからいただいた句集「斉唱」のページをめくると古来の日本人がそうしてきたように、季節の移ろいに合わせて句が並んでいます。同じ春でも冬との境目、春を謳歌し、そして夏の足音が聞こえる頃と微妙にイメージは変わってきます。春編、夏編などのように季節の句が章毎に集められているのではなく、章の中で春夏秋冬が何度も通り過ぎて行きます。季節は人間の営みなど気にせずに変わっていきますが、その繰り返される自然現象の中に、日本で起きた大きな二度の震災が影響しているのも伝わってきました。
句を詠んだ本人ではないので、その背景やそこに込められた想いは実際には分かりません。けれども不思議とその句に釘付けになり、またいろんなことを思って、なかなか次のページに進めなくなりました。
「われにある 苦きはらわた 花の昼」
「天は青き 痛みをひろげ 合歓の花」
これは、多分若い頃の作品で、自然の美しさの中に、自身の刺々しさとの対比が表現されているように受け取れました。青く綺麗な広い空に、合歓の花の突き刺す感じにしばし心を奪われました。
「枯れ菊の 日のあたり来る 畳かな」
一転、こちらはちょっと老いを感じます。枯れた菊が和室に陽の光を求めてやってくるわけがないので、実際にやってくるのは自分自身。秋の終わりに縁側にでも暖まりにやってきた自分と枯れ菊が重なる感じがして、寂しさも一入。でもそこに暖かい陽が当たっている、その感じがなんとも切なくまた一抹の幸福を感じました。
「春の日の ゴリラ空輸の 箱に入る」
「白亜紀の 地層が濡れて 9月なる」
「行く春や コインの裏の 古代文字」
たったの17文字なのに、ものすごく時空を超えた広がりを感じます。特にゴリラには、自己の不安も投影されているようでこちらも切なくなりました。
「てのひらに 低き丘あり 枯木星」
実際に何を込めたのかは分かりませんが、てのひらという小さなものの中に丘を見、そして広げた指の間の星が枯木星なのかなと思いながら、箱庭の向こうの壮大な宇宙に想いを馳せました。てのひらを見つめる自分には、もう若さが無いけれど、それでもまだ何かを追い求めているような。。。
「貝の殻 集めて捨てて 夏休み」
子供の頃、海に行くとある種の情熱を持って貝殻を集め、さてそれを家に持ち帰って見てみると貝殻からは美しさが失われていて、それを捨てることで夏の思い出と少年の自分に別れを告げるような、そんな懐かしさを覚えました。
「救急車の 路地に入り行く 秋の虹」
こういう句も好きなんですよねえ。サイレンの音が脳味噌を刺激し、窓の外を見てみると路地に入っていく救急車。何かの理由で救急車を呼んだ人がいる、可哀想に気の毒に思いながらも、いつしか秋の虹に心奪われている自分がいます。日本のどこかで毎日のように起きている悲喜こもごもな出来事も地球的な視点でみると何事も無かったように流れていくんだなあと、そんなことを思いました。
と、勝手にいろいろ解釈して、自分なりの想いに耽りました。秋の夜長に五七五の宇宙へ、皆さんも旅立ってはいかがでしょうか。