セレンディピティは「能力」であり「根性」である
一昨日のエントリ(「セレンディピティの語源はライオンの住む島」)に、昨日小林さんが下の句を付けてくださった。
いちどblogでリレーコラムみたいなことをしてみたかったので、今日もセレンディピティで一本書きます。
そう、セレンディピティとは「現象」ではなく「能力」と捉えなければいけないのですね。
― 『セレンディピティは「幸運」ではない』(シロクマ日報)
ですね。WikipediaではLongmanの"the natural ability"(生得の能力)という定義を引用しています。
『セレンディップの三人の王子たち』の編訳を手掛けた竹内慶夫氏は、解説でもう一歩踏み込んだ解釈を披露しています。科学技術の発見には「セレンディピティ的発見」がひじょうに多いことを述べ、さらに続けて曰く、
セレンディピティ的発見の鍵は、偶然を生かすことができるかどうかで、それは実験や観察をする人たちの心がまえしだいです。なにごとかに集中する意識があって、周囲のできごとを注意ぶかく観察し、それに瞬間的に無心に反応する心がつねにそなわっていることが必要です。先入観は禁物です。これがセレンディピティ的発見の必要条件とすれば、気づいた偶然を解析する能力と根性を持っていることが十分条件といえるでしょう。
(太字は引用者による)
何かに気づいても、成果につなげることなく放置してしまう。ありますねえ。言ってみればセレンディピティの無駄づかいをしているわけだ。
…『日々の「ハッ、そうなのか!」を書き留める』(だけの)blogの主として具合が悪い展開になりそうなので、この辺で。
(追記)
山口さんが「化学の世界のセレンディピティ」という充実したエントリを上げられていたことに、遅まきながら気が付きました。