機械の知性と人間の知性を隔てているのは「責任」
AIが人の仕事を奪う!
これから起きるかも知れない災厄への警鈴として、よく登場する言葉です。しかし、はたして、それは"これから"なのでしょうか?私たちは既に同様の体験をしています。例えば、カーナビです。
カーナビは不慣れな場所でも、迷うことなく私たちを目的地に案内してくれます。かつて、クルマを乗るには「道路地図」は必帯でした。車を運転するには地図を読む能力が必要であり、その能力を持たない人は、見知った近場以外にクルマで出かけることはできませんでした。
しかし、いまやカーナビのおかげで、地図を読む能力はカーナビに代替され、地図を読むことができなくても、どこにでも、好きなところへ行けるようになりました。見方を変えれば、「機械によって人間の能力が拡張された」わけです。
いまや「道路地図」など携行している人はいなくなりました。地図が必要となれば、スマホで見ることもできますから、もはや道路地図は、歴史的遺産とでも言うべき存在です(笑)。
さて、そんなカーナビですが、いまやどこに行くにもカーナビが頼りです。カーナビが指示するとおりの道をたどります。私たちは、どの道が最短なのか、走りやすいのか、景色が良いのかなどお構いなしにカーナビに従います。「カーナビが人の仕事(=地図を見て目的地を確認し最適なルートを見つける)を奪ってしまった」のです。
そんなカーナビですが、完璧ではありません。例えば、次のようなケースです。
- 脇道を行けば1分もかからないところを遠回りさせて何倍もかかってしまう
- 最短距離らしきルートを案内されたらとても狭くて車が通れない
- 確かにこの先道路はつながっているが、崖っぷちの急勾配の階段で車が入れない
「カーナビは絶対だ!」と考え、現実の道路を無視してしまうと、無駄な時間を使ってしまったり、事故を起こして大けがをしたりしてしまうかも知れません。
生成AIも同様です。知りたいことを尋ねれば、流暢でわかりやすい表現で、答えを与えてくれます。私たちは、その答えの"完璧さ(?)"に「すげぇ〜」と感心し、鵜呑みにしてそれを信じてしまいます。もしかしたら、それは、「通ることとのできない「狭い道」や「崖っぷち」なのかも知れないのに」です。
このようなことにならないためには、考えるだけで答えを出すのではなく、体験を通じて「感じる」ことや、幅広い教養を身につけることが大切です。カーナビ/生成AIが一方的に提示した"答え"を体験と教養に支えられた人間の知性で検証することです。「勘が働く」という表現に置き換えられるかも知れません。
機械の知性(カーナビやAIなど)が教えてくれる答えは、概ね正しいものです。その"概ね"は、日々"完全"へと近づきつつあります。
それでも、これで大丈夫とお墨付きを与えられるのは、人間の知性しかありません。それは、いまの社会にあっては、人間にしか「責任」が取れないからです。この「責任」こそが、機械の知性と人間の知性を区別する決定的要素なのかもしれ知れません。
機械の知性は「確率論」であり、人間の知性は「決定論」です。ならば、人間は、体験と教養で知性を磨き、「決定論」によって導かれた答えへの「責任」を負うことが必要になるのです。
近い将来、カーナビは自動運転機能と一体化し、目的地を指定するだけで、運転まで任せることができるようになるでしょう。このような目的地を指定すすれば勝手に運転してくれる「完全自動運転」の社会実装には、いましばらくの時間かがかかるかもしれませんが、高速道路でのハンズ・フリーでの自動走行や自動での車庫入れといった「部分自動運転(人間の運転することを前提に、これを支援することから"運転支援"と呼ぶ)」は、既に実用化しています。そしてこの能力は、着実に「完全」へと近づきつつあります。それを許容するかどうかは、人間の知性による「責任」です。
AIは、ますます性能を高めています。こんな時代だからこそ、人間もまた体験と教養を積み上げて、責任を果たせるように性能を高めていくことを求められているのかもしれません。
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